著者
玉田 健太
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.48-67, 2017-07-25 (Released:2017-09-13)
参考文献数
18

【要旨】1948年のジーン・ネグレスコ監督によるハリウッド映画『ジョニー・ベリンダ』で、主役で聾唖のベリンダ・マクドナルドは⼀切言葉を話さない。この点において、メロドラマ映画や特に40年代女性映画の典型的な例として、本作はしばしば先行研究によって取り上げられてきた。しかし、本作の重要な主題のうちのひとつは、まさに言葉に他ならない手話をベリンダが習得するという点にある。そこで、本稿は手話が⾮言語的なメロドラマの⾝振りではなく、言葉そのものである点を議論の出発点とする。すると、他の40年代女性映画における男性医師の機能(ヒロインが自分では言語化できないトラウマや真実を言語化する)と、本作の医師ロバートの機能は異なることになる。それを踏まえ、主に裁判のシーンを言葉という観点から分析することを通じて、男性医師ロバートもベリンダと同じく、支配的な社会から疎外された人物であることを明らかにする。本作はエンディングで、ベリンダやロバートらマイナーな言葉を話すもの同士が結束し、支配的な社会に取り込まれることもなく、また逃げ出すのでもなく、そこから適度な距離を保った新たな社会を打ち立てようと試みている様を描いているのだ。最後に本稿は、エンディングの⼆面性を明らかにし、彼女らの試みが孕む不安と希望を指摘する。
著者
玉田 健太
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.48-67, 2016

<p>【要旨】</p><p>本論文はヴィンセント・ミネリ監督による1949 年公開のハリウッド映画『ボヴァリー夫人』について論じる。本作は先行研究において、ヒロインであるエマの欲望とその抑圧を中心に論じられてきた。それに対して本論文は、フローベールによる原作小説と異なり良き夫として造形されているチャールズについて、ミネリの作家論的特質も踏まえた上でテクスト分析を中心に考察を加え、さらに同時代のハリウッド映画との比較を通じて本作の意義を明らかにすることを目標としている。そこで重要なのは、チャールズもエマと同じような行動をしているということだ。舞踏会ではエマがメロドラマ的な過剰さの下で熱狂的に踊り続ける一方で、チャールズも泥酔により放縦な行動をしている。これは精神分析の影響を受けた同年代の女性映画から本作を隔てる特徴となっている。それらの映画はヒステリックなヒロインの傍らに、正常さ=社会(家庭)=真実を体現する夫ないし男性医師を登場させているのだが、本作は舞踏会のシーンで、エマだけでなく医師であり夫であるチャールズも、自らの挫折した欲望から生じる一種のヒステリー的な異常状態に陥ることで、その原則が一時的であれ崩れているのである。ミネリによる『ボヴァリー夫人』は40 年代最後の年の映画に相応しく、複数の人物が各々の欲望と夢を持っているために至るべき結末とそこへの道筋が所与のものではない、50 年代以降のハリウッドにおけるミネリやダグラス・サークなどのメロドラマ映画の萌芽としても捉えることが出来る。</p>