著者
石垣 今朝吉
出版者
法政大学社会学部学会
雑誌
社会労働研究 (ISSN:02874210)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.p325-345, 1994-02

1973年10月に勃発した第4次中東戦争を契機として、翌74年から75年にかけて資本主義世界を襲った戦後最大といわれる不況は、成長率、失業率、国際収支、インフレなど、どの指標をとってもその危機的様相を反映したものであった。折しも1975年7月末から8月にかけて、フィンランドの首都ヘルシンキにおいて開催されるヨーロッパ安保協力会議(CSCE)に、35カ国の政府首脳が出席のため集まったのである。そのなかの西側4大国の首脳―アメリカのG.フォード大統領、フランスのV.ジスカールデスタン大統領、西ドイツのH.シュミット首相、イギリスのH.ウィルソン首相―は、それぞれ外相を伴って7月31日に、ヘルシンキのイギリス大使館での昼食会に参加したが、その席上、ジスカールデスタン大統領は極めて深刻な不況に直面している現実を前にして、日本も加えて経済・通貨問題に対処する会議を同年末にも開くべきだとする提案を行い、各国首脳の了解を得たのである。これがサミットの起源である。こうして、第1回サミットは、これら5カ国にイタリアを加えた6カ国首脳(第2回以降カナダを入れて7カ国)の参加のもとに、1975年11月15~17日、フランスのランブイエにおいて開かれたのである。以上のようなサミット生誕の経緯から明らかなように、当面の経済不況を各国の政策的協調によって切り抜けるための方策を話し合い、かつそれを見い出していこうということでサミットは始められたものであるが、経済的指標のいずれを取り出してみても、国際的側面と国内的側面との長いあいだの相互作用からもたらされた結果であって、国際的な政策協調だからといって、単純に方向転換できるようなものではないのである。それに各国の経済の発展は均等なものではないだけに、各国間の経済調整は容易なものではない。サミットが回を重ねるごとに、各国間の利害対立が小さくなるどころか、逆に激しくなる部分もあって、当初安易に考えられた成熟した資本主義国としての先進国の経済的利害調整は思うように行われなかったのである。この点で、フランス大統領ジスカールデスタンの当初の意気込みとは裏腹に、毎回会議の成果を集約して発表される共同「宣言」が世界各国の経済運営に影響を与え、なんらかの指針になるということはほとんどなかったのではないかと思われる。サミットは比較的均質化している経済構造をもつ先進7カ国首脳が一堂に会して相互間の経済調整を行い、もって世界経済の展望を切り開こうとするのであるが、各国とも石油危機あるいは世界的インフレからひき起こされた経済不況に対処して、自国内の景気政策を展開しなければならない。この点で、国際的な政策協調と国内的な経済対策とのあいだに齟齬をきたすことがしばしばあったようである。本稿は以上の点を特に念願におきつつ、国際的な政策協調の観点からサミットの分析を試みたのである。不十分とはいえ、以上の分析視角からのサミット論は、わが国では初めてではないかと思っている。