著者
福田 光治
出版者
日本比較文学会
雑誌
比較文学
巻号頁・発行日
vol.11, pp.176-165, 1968

<p> 明治二十七年四月「拾弐文豪」伝の第六巻として北村透谷の『エマルソン』評沄が民友社から出版された。この評伝はエマソンに関する著作としては日本最初のもので、明治二十三年刊の佐藤重則訳の『文明論』とともに、日本におけるエマソン移入史上大きな意義をもっている。明治の中期にエマソン思想の接触が青年透谷によってなされ、しかもそれ以前のエマソン受容の態度を一歩抻し進めた点でエマソン思想移入の先駆者的意義をもっている。</p><p> 明治維新によって海外文化摂取の門戸が開放され、当時アメリ力文化の指導者と考えられていたエマソンが、わが国と交渉をもつようになる。はやくは、明治五年、岩倉具視の率いる日本使節団歃迎の宴がボストンで開かれた。その時詩人のオリバー•ウェンデル・ホームズとともにエマソンが招待され、「日本と武士道」について講演をした。かれの東洋に対する関心が強かったとはいえ、日本に対する知識はほとんどなかったともいえる。明洽二十一年『学士会員雑誌』に「報償論」を掲載した『西洋品行論』の著者は、エマソンの熱烈な愛読者で、エマソンの章句を喑誦しては、子弟たちに座右の銘とすることをすすめたり、ことに「報償論」のごときは数十回繰り返してもあくことをしらなかったという。明治の西欧化の初期に青年たちに与えた中村正直の感化は大きかったものと思われる。エマソン翻刻版の編者外山正一、エマソンの講演をアマーストで聞き帰国後エマソンを講じた神田乃武、内村鑑三、植村正久、徳富蘇峰らをのぞいては、はたしてどの程度エマソンに親近感を抱いていたかは疑わしい。とにかく、鎖国状態を脱して新らしい海外文化にふれようとする気運に燃えて、わが国に迎えられたエマソンの姿は、まず文明論者としてのエマソンで、新らしい自己を形成し発展させるためのエマソンでなかったといってよい。当時におけるエマソン作品の選択傾向にもみられるように、外国文化摂取の開花期に当然現れるべくして現れた特徴をはっきり示している。</p><p> これらの先覚者のあとをうけて、北村透谷はどのようにエマソンに接したのであろうか。かれが『エマルソン』を執筆した時期は、明治二十六年八月三十日付の日記からほほ推定できるが、それは評伝執筆のため祖織的準備に入ったことを意味するもので、明治二十五年二月『女学雑誌』の発表前にさかのぼる。</p><p> 透谷は「余は切にエマルソン紹介者を待つ者なり。余は伝へしと言はず、論ぜりと言はん。」と記して『エマルソン』評伝を結んでいるが、かれの評伝は主観的傾向の強い作品だと考えられている。伝記的事実や作品内容の解説はともかく、かれのエマソン批評は、ごく限られたものではあるけれども、エマソンの作品に即して論じられたものであって、それほど主観性の濃いものではない。評伝の否定的な面のみをあげることになるが、透谷が評伝執筆にあたって、もっとも恩恵をうけたものとしてジョン•モーレイと、マシュウ・アーノルドとをあげることができよう。</p><p> 明治二十六年五月『文学界』第五号に発表された「内部生命論」で、透谷は不変不動の造化とこれに対する人間の「心」の関係を、エマソンの『自然論』と同じ論旨ですすめている。「頑執妄排の弊」においても「宇宙に精神ある如く、人間にも亦精神あるなり。而して人間個々の希望は宇宙の精神に合するにあり、人間世界最後の希望は、全く宇宙の精神に合体するにあり。」とのべて、エマソンの『自然論』の反映をはっきりと見せている。</p><p> 透谷は「内部生命論」で仏教とキリスト教をそれぞれ不生命の思想、生命の思想と見ているが、ことに仏教が本来の目的からはずれ迷盲の世界より解放すべき使命を放棄しているために、従来の仏教観にとらわれざるを得なかった。エマソンが形式化されたキリスト教には反対したが、キリスト教そのものは肯定している。同じように透谷は「内部生命論」では仏教を否定的に見ているものの、その「本来の目的」であるべき姿を肯定していることは「他界に対する観念」の中の言葉で明らかである。『平和』第六号に発表された「各人心宮内の秘宮」においては、普通の論理では把握不可能なかたくとざされた「心宮内の秘宮」に、われわれ人間の精神の活動の根底をおいている。この「秘宮」「内部生命」「人間の生命の裡の生命」にもとづいてはじめて永遠性、絶対の把握が可能になる。この仮相の世界を離れて「大平等の理」変化の中の統一を確立することこそ、透谷のめざすところであった。したがって「生命の根本」を軽視した徳川時代の巧利派の文学を非難するのも当然なことであった。肯定的な唯心論を展開した「心の経験」から自然と我の冥契を説く「一夕観」になると、冷静な自然観照の中にも内的葛藤に悩む透谷の片影が映っている。エマソンは,自己の本性にのっとれば、矛盾など問題ではないと言っているが、透谷の場合は、かれとはまた別の意味で自己思想の矛盾を表出しなければならなかった。その相違も性格はもとより、エマソンのおかれた風土的環境や、あの楽天的な開拓精神の横溢した時代的背景を考えてみれば当然なことである。けれども「伝へしと言はず論ぜりと言はん。」として書きあげたはずの「彼の楽天主義」(「エマルソン」)には、エマソン否定の言葉はみられないのである。善悪の問題についても、悪は本質的には絶対悪ではなく、善の「否定的なもの」と考えたエマソンにとっては、それが人間個人の教育に資し、人間経験の拡大に貢献するものとした。内部生命の昂揚という大きな視点にたてば、悪の存在は否定され、徹底した個人主義、楽天主義へと導かれる。ところが透谷は、善悪の二元対立を認めている。悪をエマソンのように単なる表裏関係ないし対応関係にあるものとすれば、善と悪の「紛争」は永遠に続くものと考えた。ここにエマソンと違って原罪意識から抜けきれなかった透谷の内面的葛藤が示されている。(立教大学)</p>