著者
角尾 宣信
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.92-113, 2019

【要旨】<br> 敗戦後から1960年代前半にかけて、「風俗映画」と呼称される多くの作品が登場した。その特徴は、同時代のライフスタイルや風景などを記録し、そこから人々の思想や価値観を捉えるものと指摘されてきた。本論文は、総合的な「風俗映画」の研究に向けた一歩として、「風俗映画作家」と言われていた渋谷実の『自由学校』(1951年)を取り上げ、原作小説および吉村公三郎による同名翻案(1951年)と比較し、その「風俗映画」としての映画史的・社会史的意義と可能性を考察する。<br> 渋谷作品のスタイル上の特徴として、戦争および敗戦のトラウマの継続と、人物表象および心理描写両面での奥行きの無さの二点が指摘されてきた。本論文は、この二点を結ぶ線上において、本作品の特徴である男性主人公の「平面に寝ころぶ」という繰り返し現れる身ぶりを考察する。また、本作品での平面性というスタイルが、愛情や行動意欲の欠如と、ジェンダー的および物理的な平等性という二重の意味をもつことを指摘する。そして、この身ぶりの繰り返しを通じて描かれる、行動意欲を徹底して欠いた男性主人公の心理状態を、敗戦直後における日本社会全体の「虚脱」状態から歴史的に位置づける。さらに、本作品では、この「虚脱」状態を核として、「風俗映画」と見なしうる同時代の記録が構成されており、それが同時代における「虚脱」状態の逆説的かつ肯定的解釈と通じ合うことを示し、敗戦後の社会的心理状態から「風俗映画」を考察する必要性を指摘する。