著者
Elizabeth N. TINSLEY
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1284-1287, 2010-03-25 (Released:2017-09-01)

この論文において,『遍明院大師明神御託宣記』(以下『託宣記』と称す)の制作過程を検討する.同テキストは,建長3年(1251年)にあった託宣の記録として,高野山中院流道範(1184年-1252年)によって記されたと伝えられる.道範は1249年に配所から帰山した.現存する写本には,託宣自体とともに仁治3年(1242年)に起きた金剛峯寺と大伝法院の間の紛争と,仁治4年(1243年)にあった道範を含めて金剛峯寺僧侶の配流についての叙述の部分もある.『託宣記』が作成された時期は,仁治3年の紛争の時期に近く,事件についての情報源も詳しく,貴重な史料であるにもかかわらず,この事件に関する先行研究では『託宣記』との関係については,ほとんど無視されていた.道範が高野山へ帰山が許されたのは1249年であり,大伝法院の再建を条件とするものであったと史料上に示唆されている.しかしながら,『託宣記』には,大伝法院の再建・僧侶の帰山にたいする記述が見られない.それどころか,配流のすぐ後に著されたテキストのように見える.高野山中院流学侶宥快(1345-1416)の著書(『阿互川草薬中記』(1413頃著)など)によると,この託宣自体は,配流以前に下されたものとして理解されている.この宥快による理解は,従来考えられていた『託宣記』の作成時期,作成背景,構造と著者について再考を提示するものであり,テキストの解釈を見直す必要があると思われる.