- 著者
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Michel Wolfgang
Wolfgang Michel-Zaitsu
Werger-Klein Elke
- 出版者
- Japan Society of Medical History
- 雑誌
- 日本医史学雑誌 (ISSN:05493323)
- 巻号頁・発行日
- vol.50, no.4, pp.463-492, 2004-09 (Released:2009-04-22)
本論文は宗田一が史上初の公式製薬伝習として紹介した寛文12年頃の薬油蒸留を取り上げながら、新しく見つかった史料に基づき、この欧日技術移転の経過及び背景を解明するものである。 カスパル流外科の写本や出島蘭館日誌などが示すように、初期紅毛流外科においては数々の薬油が適用されている。また慶安4年のカスパル・シャムベルゲルの離日後、オランダ東インド会社に対する医薬品の注文が著しく増え、その中で薬油は大きな比重を占めていた。高価な上に供給が不安定な薬品の輸入が問題視されたためか、幕府は寛文7年に両長崎奉行を通じ東インド会社に対し将軍及び老中の名において薬草の種や苗、また蒸留器一式及び薬草や蒸留技術に精通する専門家の派遣を求めた。 交易条件の改善を念頭に、オランダ東インド会社は寛文8年から薬草や薬草の種及び苗木を日本へ送ることを決定した。その翌年出島に派遣された若き薬剤師ゴットフリード(ホーデフリード)・ヘックは長崎周辺での薬草調査を行っているが、奉行の要請を受け寛文11年に出島へ派遣された経験豊富な薬剤師フランス・ブラウンの赴任によりヘックは更迭された。ブラウンとともにヨーロッパから取り寄せられた大型蒸留器がついに日本に上陸し、幕府の経費で出島の敷地内に「油取家」が建造された。翌年の春にブラウンが薬油の蒸留を開始し、その一部は献上品として江戸へ送られた。6名の阿蘭陀通詞がまとめた報告には、単純な蒸留法から7日間を要する複雑な樟脳油の製造方法の説明まで、また大型の釜、冷却装置、各種の容器など器物の図も見られる。 寛文11年5月にはブラウンの手を借りずに数名の日本人医師が出島の装置で丁子油などを蒸留できるようになり、それ以降もヨーロッパ人や日本人による蒸留に言及する記述が商館長日誌に見られることから、薬油蒸留の技術移転が成功したと言える。輸入薬草の国内栽培の試みは1670年代前半に失敗に終わったが、オランダ商館での薬油蒸留はしばらく続けられた。しかし第5代将軍綱吉が即位した直後、出島で製造した薬油ではなくバタビアからの薬油を献上品として求める通知が商館長に届いた。これにより蒸留装置を維持する会社の意欲は著しく低下したと思われる。元禄4年の商館日誌に、密貿易者の処刑が出島の「東端、皇帝の蒸留家の近く」で行われたという記述が見られるが、当時出島で勤務していた蘭館医ケンペルの資料には薬油製造に関するメモなどは全く見当たらないことから、出島の蒸留装置はもはや使用されていなかったことがうかがえる。 楢林鎮山、加福繕兵衛、嵐山甫安系の資料に残っている阿蘭陀通詞がまとめた報告は一連の写本及び版本を通じて19世紀まで受容された。蘭学の開花よりも遙かに早く行われたこの公式の技術移転は画期的な事であり、医療品に対する幕府の積極性を物語っている。