著者
村上 友章 MURAKAMI Tomoaki
出版者
三重大学教養教育機構
雑誌
三重大学教養教育機構研究紀要 = BULLETIN OF THE COLLEGE OF LIBERAL ARTS AND SCIENCES MIE UNIVERSITY
巻号頁・発行日
no.2, pp.1-20, 2017-03-31

本稿は、明治末期に三重県に存在した近代的水産缶詰会社の先駆けたる東洋水産株式会社(以下、東洋水産)の興亡の全容を詳らかにし、その歴史的意義を再検討した。殖産興業の中でも缶詰産業の発展は他の諸産業に遅れをとっていた。だが日露戦争以後、中央(牧朴真・農商務省水産局長)・地方(石原圓吉・三重海産組合代表)の両方から軍需缶詰工場を輸出向鰮いわし油漬缶詰製造工場に転換する着想が芽生え、それが、両者の対立を経つつも妥協に転じて東洋水産設立に至る。だが鰮の不漁、輸出不振が続くや、大株主が離反し、同社は再編を余儀なくされる。加えて一九〇七年不況がこれに追い打ちをかけ、海外市場はおろか国内市場でも同社の水産缶詰は売れず、結果として同社は軍需缶詰工場へと再び回帰せざるをえなかった。こうした中、東洋水産の経営を支えたのが、農商務省から技師として派遣された高碕達之助であった。高碕は中央の最新技術を地方にもたらすと同時に、地方の窮状を中央に訴えるユニークな役割を果していく。また、同社が軍需缶詰工場に転換するや、その責任者(技師長)として経営再建に尽力した。だが刃折れ矢尽きた高碕は渡米を決断、石原もこれを快諾した結果、東洋水産は事実上の解散を迎えるに至った。このように東洋水産は時代の徒花に終わった。だが、その遺産は少なからぬ地方の人々の生活を支えたと同時に、後の日本缶詰産業発展のために不可欠な経験となった。This paper examines the rise and fall of Toyo Suisan Kaisha (the Oriental Marine Products Co.) in Mie prefecture from 1906 to 1914. The Toyo Suisan Kaisha was one of Japan's fi rst modern Sardine-canning companies and it was promoted by the Meiji government. Previous work leaves many points unclear about this historically important company. Using primary documents and neglected materials (e.g., Ise Shimbun), I show the actual condition of the company's business and consider its historical implications. To present of an authentic picture of Toyo Suisan Kaisha, I focus on the relationship between the national government and local actors (Mie prefecture and local businesspeople), emphasizing the role of Takasaki Tatsunosuke who, as an engineer, held a mediating position between the two. The historic legacy of Toyo Suisan Kaisha is due to Takasaki. He established Japan's fi rst modern can-manufacturing company and modernized the entirety of Japan's canning industry.
著者
村上 友章 MURAKAMI Tomoaki
出版者
三重大学教養教育機構
雑誌
三重大学教養教育機構研究紀要 = BULLETIN OF THE COLLEGE OF LIBERAL ARTS AND SCIENCES MIE UNIVERSITY
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1-20, 2017-03-31

本稿は、明治末期に三重県に存在した近代的水産缶詰会社の先駆けたる東洋水産株式会社(以下、東洋水産)の興亡の全容を詳らかにし、その歴史的意義を再検討した。殖産興業の中でも缶詰産業の発展は他の諸産業に遅れをとっていた。だが日露戦争以後、中央(牧朴真・農商務省水産局長)・地方(石原圓吉・三重海産組合代表)の両方から軍需缶詰工場を輸出向鰮いわし油漬缶詰製造工場に転換する着想が芽生え、それが、両者の対立を経つつも妥協に転じて東洋水産設立に至る。だが鰮の不漁、輸出不振が続くや、大株主が離反し、同社は再編を余儀なくされる。加えて一九〇七年不況がこれに追い打ちをかけ、海外市場はおろか国内市場でも同社の水産缶詰は売れず、結果として同社は軍需缶詰工場へと再び回帰せざるをえなかった。こうした中、東洋水産の経営を支えたのが、農商務省から技師として派遣された高碕達之助であった。高碕は中央の最新技術を地方にもたらすと同時に、地方の窮状を中央に訴えるユニークな役割を果していく。また、同社が軍需缶詰工場に転換するや、その責任者(技師長)として経営再建に尽力した。だが刃折れ矢尽きた高碕は渡米を決断、石原もこれを快諾した結果、東洋水産は事実上の解散を迎えるに至った。このように東洋水産は時代の徒花に終わった。だが、その遺産は少なからぬ地方の人々の生活を支えたと同時に、後の日本缶詰産業発展のために不可欠な経験となった。