著者
豊国 孝
出版者
小樽商科大学
雑誌
小樽商科大学人文研究 (ISSN:0482458X)
巻号頁・発行日
vol.74, pp.161-184, 1987-08
著者
杉村 泰教
出版者
小樽商科大学
雑誌
小樽商科大学人文研究 (ISSN:0482458X)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.89-105, 1995-03

ウィリアム・ゴールディング(William Golding)の作品の中で,時間意識に強いこだわりを示しているのが『ピンチャー・マーティン』(Pincher Martin)と『自由落下』(Free Fall)である。『ピンチャー・マーティン』においては,主体の現時点の意識の大部分が過去の追憶の断片と非現実的な願望の断片に取って代られ,ごく稀に現在の自己の姿が垣間見られるような描写となっていた。『自由落下』では,現在の自己は『ピンチャー・マーティン』の場合ほど徹底して隠蔽されている訳ではないが,現時点における自己の姿の明確な把握をことさらに避けるところがある。即ち,今の時間が殆ど描かれず,過去の断片的時間と未来の断片的展望のみが主体の回復を求めて前面に押し出されている。過去の追憶と非現実的展望が現在の自己を押しのけて侵入し,寸断された時間が寸断された自己を無秩序に主張しているのである。確かにサミー(Sammy Mountjoy)の言うように,時間は生まれた時のしゃっくりから死ぬ時の喘ぎまでを煉瓦のように一列に並べたものではない。殊に記憶は,ある事件が他よりも重要であったり一つの事件が別の事件を喚起するような場合,時間の順序を崩すものである。だが,サミーの語る記憶がどれほど断片的なものであろうとも,それらを現時点で繋ぎとめることができれば自己の姿は今のような分裂状態にはないはずである。この意味で,『自由落下』のサミーは『ピンチャー・マーティン』のマーティン(Christopher Martin)同様,終始,自己の姿が捉えられない状況にある。以下に述べるのは,サミーの寸断された自己の存在が彼の寸断された時間に他ならず,この時間の断片を現時点の意識の中心に繋ぎとめることができなければ,自己の存在を取り戻すことは望めないという事実である。