著者
砂本 文彦 Sunamoto Fumihiko スナモト フミヒコ
出版者
日韓文化交流基金
雑誌
訪韓学術研究者論文集
巻号頁・発行日
pp.71-101, 2009

本研究は、日本統治下の朝鮮半島でのリゾート地開発について研究を行うとともに、日本地で実施された国際観光政策との比較考証を通じて、植民地時代の朝鮮半島の観光とリゾートについて明らかにしたものである。日本統治下の朝鮮半島で、外国人が訪れた国際観光地・リゾート地開発といえば想像しがたい。恐らくは、朝鮮総督府施政下の朝鮮半島に外国人が「遊びに訪れていた」ということ自体が、具体的なライフスタイルや空間像として思い描けないからではないだろうか。学界の状況は、朝鮮半島の「観光」の萌芽は植民地時代にあったがそれは日本人の「来韓」時代であり、本格的な国際観光ではなかったとしている。よって、「国際観光政策Jの萌芽は主体的な政策立案が可能となった大韓民国成立後の1960年代を待つ必要があったという。ところで、釜山ステーションホテルや新義州ステーションホテル、京城の朝鮮ホテルは、外国人の宿泊を想定して洋式の設備を朝鮮総督府鉄道局が整備したものである。また、開港都市仁川には、それよりも早くから、気鋭の経営者により小規模のホテルが開業されていたことは周知の事実である。日本統治下でも外国人は何らかの理由で朝鮮半島を訪れていた。政策立案の主体性ではなく、国際観光の「場」としての朝鮮半島の状況に軸足を置いた研究の必要がある。しかも、1930年代の日本内地では、国際観光政策が実施され、国と地方団体、実業家の協力で12の国際リゾート地が建設されたが、朝鮮半島への影響についての検討もする必要がある。本論文では、この認識を改変することを研究のクライテリアの一つに掲げ、戦鮮半島の近代観光が「植民地朝鮮-宗主国日本」といったクローズした関係にとどまらなかったことを検討した。まず、1920年代の大型船舶就航に伴う世界旅行団の仁川入りを取り上げ、京城に観光客が訪れ朝鮮総督府鉄道局がホストとして受け入れたことを指摘した。同様に、新義州からの鉄道での入国でもこうした状況があったが、当時はそれ以上に欧亜国際連絡運輸締結による鉄道旅行者増加への期待が膨らんでいたことを指摘した。また、朝鮮半島在住の宣教師たちは、避暑のための別荘地を各地で形成し、そこに朝鮮半島外からも外国人が避暑に訪れていたこと、さらに類似の開発を近隣で鉄道局などがすすめていたこと、金剛山電気鉄道による金剛山の開発など、さまざまな旅行の目的や滞在形式がありつつも、外国人が朝鮮半島に訪れていたことを述べた。それらが日本内地と同様、欧亜国際連絡運輸の影響下にあったことも検討した。そして朝鮮半島内にもこうした外国人を含めた誘客誘致のための施策があったことを指摘した。ただ、その施策立案の理由としては、内地のような外貨獲得を目的とした国際観光政策ではなく、鉄道局の権造的な不振がありこの状況の打開のために旅客収入増大の一手として「観光」があったことを指撤した。当時の俸給層の台頭もあいまって、新たな余暇生活、リゾート生活の提案を行うことと同様に施設整備があり、注目すべきは、英米人宣教師が「発見」した避暑地の近隣にあえて開発を行い、彼らの秘められた避暑生活を鉄道で結びつけて「大衆化」していったという構図があったことを指摘した。また、近代化の過程で財をなす個人が出現し、自身の洋行経験に照らして近代観光開発をすすめてもいた。