著者
鬼束 芽依 オニツカ メイ
出版者
西南学院大学博物館
雑誌
西南学院大学博物館研究紀要 (ISSN:21876266)
巻号頁・発行日
no.8, pp.41-49, 2020-03

日本における考古学の始まりは、一般的にE・S・モースによる大森貝塚の発掘だとされ、「近代科学としての日本考古学の出発にふさわしい」(大塚・戸沢・佐原編『日本考古学を学ぶ』1988 有斐閣:57頁)とされている。しかし、国学や本草学が盛行 していた時代には、趣味や研究の1 つとして石器や勾玉などの古器物を集め、研究・考察結果を論文として書き遺した人物が多数存在していた。そのような人物たちは、現代において考古学の先駆者として評価されており、研究も多くなされている。江戸時代に考古学が学問的に成熟したわけではないが、学問の隆興と好古思想の流行から多くの学者が古い事柄を考える取り組みを行い、それらの人々はしばしば「好古家」と呼称される。具体的な好古家の例を挙げると、福岡藩の好古家として有名なのが青柳種信である。彼の考古学的業績としてもっともよく知られているのがその著作『柳園古器略考』である。これは、1822(文政5 )年に怡土郡三雲村で偶然発見された、甕棺と同時に出土した銅剣・銅戈・鏡・銅矛・勾玉・管玉・ガラス璧について記録・考証したもので、その図版の正確さや考証の精緻さで高く評価されている。そのような人物たちに個人的に興味を持ち、好古家として著名な伊藤圭介と彼が所属していた本草家グループ・嘗しょう百ひゃく社しゃの活動を調べていた際、メンバーの1 人である吉田雀じゃく巣そう庵あん(以下雀巣庵とする)の活動に興味を持った。彼が主催し自宅で行っていた博物会には石器や古器物の出品が多い(磯野2001)という情報を手に入れ、幸いにも国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)でその博物会の目録を閲覧することができた。雀巣庵は『虫譜』『貝譜』『魚譜』などの自然科学分野に関する名著を遺したことで名高いが、本稿では『尾張名古屋博物会目録』という史料を通して、雀巣庵を考古学の先駆者として再評価したい。
著者
石山 禎一 宮崎 克則
出版者
西南学院大学博物館
雑誌
西南学院大学博物館研究紀要 = Research bulletin of Seinan Gakuin University Museum (ISSN:21876266)
巻号頁・発行日
no.8, pp.3-27, 2020-03

国外追放となったシーボルトが其扇へ送った最初の手紙は、これまで未発表だった。シーボルトの手紙は、1941年刊の『シーボルト関係書翰集』に多く載っているが、この手紙は掲載されていない。『シーボルト関係書翰集』は、ベルリンにあった日本研究所(日本学会)が収集したシーボルト関係資料をもとにしており、それは、1927年にシーボルトの孫娘エアハルト男爵夫人エーリカからベルリン日本研究所が一括購入したものである(ベルリン日本研究所の収集資料は、1935年、上野の東京国立博物館で開かれた「シーボルト資料展覧会」(4月20日~ 29日)のために日本へ貸し出された。その時、2年間をかけて資料撮影が行われ、白黒反転のフォトシュタット版複製品は東洋文庫に現存する)。ここで紹介する手紙は、シーボルトの次女マチルデ・フォン・ブランデンシュタインの子孫家に伝わる手紙である。ブランデンシュタイン(Brandenstein)城に残るシーボルト手紙の一部は、宮坂正英氏らによって紹介され、日本語訳も付されているが、この手紙は未発表である。1829年、国外追放となったシーボルトは長崎を出港し、オランダによるアジア貿易の基地があったインドネシアのバタヴィア(現ジャカルタ)に着く。彼はバタヴィアからオランダへ向けて出港するとき、其扇へ3 通の手紙を送った。オランダ語で書かれたシーボルト自筆の手紙の他に、内容を和訳し「女房詞」調の「くずし字」で書かれた和訳文の手紙も残る。シーボルトが送った3 通の手紙は、その年の其扇の返事に「三月四日、同七日、同十四日、三度御手紙相とゝき」とあるから、確かに届いている。本稿ではオランダ語原文、「女房詞」調の和文を全文掲載し、併せて現代語訳も掲載する。手紙には、どのようなシーボルトの想いが込められているのだろうか。また彼は、日本に残した妻子の「面倒」をどのように見たのだろうか。