著者
岩田 浩太郎
出版者
西村山地域史研究会
雑誌
西村山の歴史と文化
巻号頁・発行日
vol.3, pp.169-208, 1996-11-30

はじめに 本稿は、近世後期に出羽国村山郡松橋村(上組)沢畑の豪農堀米四郎兵衛家がおこなった紅花出荷の動向について、とくに荷数や出荷の形態などに関する基礎的な考察をおこなうことを課題とするものである。堀米四郎兵衛家に関しては、幕末期の農兵頭としての活動についての研究があり、「村山地方屈指の大地主」の一人として注目されてきた。また、今田信一氏による一連の最上紅花史の研究において、堀米家の紅花生産や取引関係の史料の一部が紹介されており、かつ、同家の家屋敷地が河北町(山形県西村山郡)に寄贈されて河北町立紅花資料館として公開されたことからも、同家が紅花荷主として活躍したことはひろく知られてきているといえる。しかし、堀米四郎兵衛家の紅花荷主としての活動をはじめ、その経営に関する実証的な研究はほとんどなされておらず、羽州村山地方における豪農の一典型として著名なわりには、その実態は未解明なままであるのが研究の現状といえよう。近世後期における堀米四郎兵衛家の経営構造は多角的な性格を有しており、その全体像を解明するためには同家の様々な社会的経済的活動に関する分析を蓄積していくことが必要である。本稿は、そうした作業の一環として位置づけられる。また、紅花荷主帳簿の史料的性格については研究者間で議論が展開しておらず、分析方法についても共通認識が形成されていないのが現状である。本稿は、以下で取り上げる「萬指引帳」の分析過程をやや子細に示すことにより、ささやかながら荷主帳簿論の前進を果たそうとするものでもある。近年、堀米四郎兵衛家文書は、河北町誌編纂委員会・河北町立中央図書館をはじめ、地域の先学の尽力により、保存・閲覧の体制が整えられるとともに史料翻刻の作業が進められた。本稿は、こうした研究条件の進展を基盤としている。また、山形大学人文学部日本経済史(岩田)ゼミナールでは堀米四郎兵衛家文書の研究を進めている。本稿は、ゼミナリステンとの議論の産物でもあることを明記しておきたい。