- 著者
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内山 大
樋口 忠彦
- 出版者
- Japan Society of Civil Engineers
- 雑誌
- 日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
- 巻号頁・発行日
- vol.5, pp.91-98, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)
港町新潟の町づくりが本格化するのは、元和2年 (1616) に堀直寄が長岡藩主になり、その支配を受けるようになってからのことと考えられる。それ故、本論では、これ以降の江戸時代の新潟を取りあげている。そして、そこにみられるいくつかの町づくりおよび町の特徴を取りだして報告している。第一は、白山神社を南の基点とし、日和山を北の基点に位置づけて、町づくりがおこなわれたのではないかということである。第二は、新潟の町割は1ブロック2行の短冊型の町割で、1行の奥行は約25間と推定され、各戸の敷地の間口は4間を基本にしていたと考えられることである。第三は、亨保と天保の地子高の資料により、当時の地価の状態をみると、信濃川から離れるほど低くなっていて、町の経済は信濃川に大きく依存していたことがわかることである。