著者
渡辺 貴介 ラプキタロウ スントン
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.143-150, 1984-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5

The paddy field reclamation work in the Edo period was usually made through the construction of irrigation system and the extensive implementation of cropping program. The project of Sarmtongi, being started in 1854, was initiated from theagricultural waterpaths operated under a relatively distinctive construction technology of the time. Furthermore, the new town and regional planning idea was peerlessly and successfully conducted. This historical performance is verified to be in close consistency with our contemporary theory for regional planning and is still the principle for the development of Towada City nowadays.
著者
新谷 洋二 堤 佳代
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.113-119, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8
被引用文献数
1

封建都市城下町が近代都市へと再編し発展する際、近代の代表的交通機関である鉄道が及ぼした影響は大きい。交通は都市そのものの構造を大きく規定するものであり、この構造如何によって、都市の発展は大きく左右されるものである。本研究では、鉄道がどのようにして城下町の近代都市化を促進していったかを、地図上に見られる形態的変化を追うことにより明らかにしようとした。その結果、次の事が明らかになった。鉄道は確かに都市の発達を助長した。それは、どの都市でも鉄道駅に向かって市街地が伸びていることからも明らかである。しかし、その市街地の伸展の度合や時期は、各都市で大きく異なる。それには、鉄道建設当時に都市のもつポテンシャルが各都市ごとに異なり、鉄道を利用して発達できる力をもっていたか否かによって、差が生じたものと考えられる。さらに、市街化の進む過程において、鉄道路線が壁となり、そこで市街化の進度が鈍くなる都市と、それを一早く乗り越えていく都市とがみられる。これにも同様の理由が挙げられる。付け加えて、そのポテンシャルが近世以来のものだけでなく、近代以降形成されたものをも含む。つまり路線を越える力は、近世の石高とか産業に左右されるものではなく、駅方面へ市街化が進む過程で形成された工場及びその関連施設の立地に大きく影響されている。そして、駅の表と裏を結ぶ地下道等の建設がこれを促進している。また、その際、市民性、風土といった目に見えないものも無視できない。
著者
小野田 滋
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.115-122, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
21

First derrick car called SO-1 type was designed for bridge erection by Japanese Government Railways, and 6 units of them had been built from 1920 to 1927. This derrick car was capable of erecting up to 70ft span and 28ton weight class plate girder bridge. Though based on the past similer idea, the car was an original one for railway use, and it contributed very much to construction of railway network at that time. This erection method was characterized in that it made the bridge erection safer, faster and more economical than the former staging erection. But it retired about 1960', because a new bridge erection has been developed thereafter, and a new derrick car SO-200 type appeared in 1960. This paper discribes a history of the first derrick car for bridge erection.
著者
天野 光三 前田 泰敬 二十軒 起夫
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.88-95, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
19

関西地方には、古来よりの伝統と格式を持ち、多くの参詣客で賑わう寺社・仏閣が数多く存在している。これらの寺社への参詣客輸送を主な目的として、明治から昭和初期にかけて多くの地方鉄道・軌道や軽便鉄道が設けられた。関西鉄道 (現JR関西線) に接続して、伊勢神宮と結ぶ「参宮鉄道」(現JR参宮線) が、明治26年に開業したのを始めとして、明治31年には高野山と大阪を結ぶ高野鉄道 (現南海高野線) が開業した。その後、能勢電車、水間鉄道、天理軽便鉄道 (現近鉄天理線)、生駒ケーブル、参宮急行電鉄 (現近鉄大阪線・山川線) など数多くの路線が次々と生まれた。これらの鉄道の中には、第二次大戦末期に不要不急路線として資材供出の犠牲となったものも少なくない。このような寺社参詣鉄道は、安定した寺社参詣旅客の輸送需要に支えられて発展していき、大軌 (現近鉄) 系のように次々と路線の拡大をはかっていった会社も見られる。しかし、戦後、昭和30年代に入り、観光ニーズの多様化や、急速なモータリゼイションなどにより乗客の大幅な減少が引き起され、経営基盤が揺り動かされている鉄道路線も少なくない、また一方では、能勢電鉄や水間鉄道などのように、都市化の波に洗われ、通勤通学輸送を主体とした都市近郊鉄道に脱皮しつつある路線も出てきている。これらの鉄道について路線の成立と発展過程をふりかえり、大阪都市圏の鉄道綱整備に果たした役割について、その意義を考察するものである。
著者
伊東 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.198-207, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
16

ここ一, 二年, 都市における身近な土木施設として, 橋が注目されている。橋のたもとにとられる, ちょっとした空地「橋詰広場」は, 都市のオープン・スペース, ポケット・パークとしても注目されている。本稿は, かつては賑いの場であり, 交通・情報センターとして機能していた橋詰広場が, どのように変遷して今日に至ってきたのか, について簡単な素描を試みたものである。江戸から今日までの時代を, i) 江戸初期, ii) 江戸後期, iii) 文明開化期, iv) モダニズム期, v) 現代の5期にわけ, それぞれの時代を代表する絵図・写真・地図などを手がかりに橋詰広場施設と景観の変遷を, 日本橋を例にして, 検討している。結論として,i) 時代を経るにしたがって, 橋詰広場は自由な空間ではなくなったこと。言いかえれば。管理されたスペースになってきたこと。ii) 多種多様な機能を有し, 人の賑いの場であった橋詰広場は, 時代の推移と共に, 単一的な機能スペースとなり, 賑いの場ではなくなってきたこと。等を指摘している。
著者
藤田 龍之
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.9-12, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
3

土木工学を専攻する者にとって“Civil Engineer”=「土木技師」また、“Civii Engineering”=「土木工学」と訳すのは常識となっているが、わが国で最初に発行された辞書から、この訳語が使われてたのかどうかを調べてみた。その結果、明治以前に発行された辞書には、この訳語がなく「土木」という言葉が訳語として最も早く現れるのは明治6年発行の英和辞典の「附音挿圓・英和字彙」である。しかし、これも“Civil engineer”=「土木方」とあり、現在もちいられている訳語とは異なっており、いま使われているような訳語として成熟したのは明治の中ごろ以後である。
著者
越沢 明
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.121-132, 1987

本稿は1895~1945年に目本の統治下にあつた台湾の都市計画の特徴について最大の都市である台北を例にとって取りまとめたものである。<BR>台北の市区改正の実施の契機は、不衛生な都市環境の改善であり、そのために下水道の敷設と道路の改良が実行された。それを推進したのは、後に日本内地の都市計画の発展に大きな功績を残す後藤新平であり、下水道敷設のプランをつくったのは日本の近代上下水道の基礎をつくったパルトンであった。<BR>1932年に郊外地の開発を目的とする近代的な都市計画が策定された。そのプランは公園道 (ブールバール) を重視し、新市街地の軸線として用いている。1937年の都市計画法制度の整備以降、土地区画整理により、新市街の開発が着手されている。<BR>戦後、中華民国になってからの台北都市計画の街路、公園は戦前のプランがほぼそのまま継承されている。また法令もそのまま採用され、用途地域、土地区画整理など、制度而でも今日の台湾の都市計画に影響を与えている。
著者
西野 保行 小西 純一 淵上 龍雄
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.126-135, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

Development of Railway rail used in Japan (1872-1930's) is traced by verifying the rolled mark and the cross-section of individual rails remaining in various forms and in various places. In this 2nd report, rails used by railways other than the national railways are described: rails of private railways, tram rails, light rails, imported used rails and others. Most of these were imported from overseas until 1920's: from U.S.A., U. K., Germany, Belgium and other countries. As for cross-sectional design, the American practice had been widely accepted until the Japanese original sections 40N, 50N and 50T were proposed and adopted as the standard in 1961.
著者
福島 二朗 西片 守
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.289-294, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
25

本研究は、大化改新から江戸時代までの東山道をとりあげ、その果たしてきた役割を時代ごとに明らかにすると共に、地方の地域社会発展にどのような影響を及ぼしたかを、栃木県足利市を例としてとりまとめたものである。今回は第一回目の報告として、大化改新から平安時代までをとりあげたが、この時代における東山道は国家統一・中央集権的支配体制の確立を目的としたものであり、その機能は次の3項目に大別することができる。1. 東国以東の地域を中央支配体制の中に組み入れるための軍事的目的2. 中央の経済基盤を固めるための物資 (調庸) 輪送3. 精神的支配を目的とした仏教の普及本稿では、この3つの機能についての裏付けを、古代政治・制度等との関わりから明らかにすると共に、中央と地方との媒介としての東山道によって、その経路に位置した足利がどのような変貌を遂げていったかを述べた。
著者
笠松 明男 金井 萬造 長尾 義三
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.230-236, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
5
被引用文献数
1

京都市の伏見地域は、豊臣秀吉の伏見城築城による城下町がその起源であったが、江戸時代以後は伏見奉行所の管轄下において、西国大名の参勤交代や京大坂間の河川水運の重要な中継地であり人口約3万人を数える一大港湾都市として栄えた。その保有舟数は700隻を数え、河川港湾でありながら東・西廻り航路のどの港町よりも大きな港湾であった。伏見港の発展をもたらした要因は、第一に豊臣秀吉の伏見城築城及び淀川 (宇治川) の改修と巨椋池の切り離し、角倉了以・了一父子による高瀬川運河開削というわが国の歴史的にも重要な土木工事の成果である。第二に、江戸時代中期頃の商品経済の発展に伴う、東海道 (大津~三条) の陸運物資が飽和状態となったため、琵琶湖水運が衰退し、代わって西廻り航路が発達したという、経済的要因に着目できる。しかし、鳥羽・伏見の戦いによる戦火と鉄道敷設という陸上交通の一大革命により、伏見港や淀川水運も他の河川水運と同様、一旦、衰退の兆しをみせるが、琵琶湖疏水 (明治23年) 及び鴨川運河 (明治27年) の開削により、再度脚光を浴びることになる。このような、伏見水運も鉄道と道路輸送の本格的な発展と淀川治水事業の進展により衰退し、昭和34年には、最後の舟溜まりの埋立が決定し、昭和40年伏見港はその歴史的な意義を閉じた。
著者
伊東 孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.264-273, 1988-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

万世橋は、東京の橋の中では、比較的名の通った橋であるところが、万世橋は、萬世橋・万代橋ともかき、読み方は、「まんせいばし」「よろずよばし」ともよむ.「昌平橋」とよばれたこともある。結構複雑である。橋の位置も、いろいろかわったようだ。「万世橋の前身は、江戸時代の筋違橋である」と、一般的にいわれている。しかし本稿では、「万世橋は、明治生まれの橋である」にこだわって、論をすすめている。まず、万世橋の橋名と架橋位置の変遷を文献でしらべ、これの確認をかねて、地図や図版などをもちいた。あわせて、橋詰空間の変遷や建物の状況などについても、言及した。結果は、仮説的ではあるが、万世橋の架橋と橋名の変遷をわかりやすい一覧図として提示した。
著者
越沢 明
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.265-276, 1985-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
28

1937年の芦溝橋事件から1945年の敗戦までの間、中国大陸の一部は日本軍の占領下にあった。この時期、華北の現地政府 (曰本のカイライ政権) には、日本の内務省・地方庁より大量の土木技術者が派遣され、占領地の土木事業に従事した。なかでも北京では増加する日本人を収容し、また都市住民のための軽工業を立地させるため、都市計画が立案され、西郊と東郊にそれぞれ新市街が建設された。この日本が立案、実施した北京都市計画は、近代都市計画理論 (住区構成、市街化禁止区域の設定等) を導入しながら、かつ北京という都城としての構成原理を尊重し、明解な軸線を有していた (東西軸は長安街の延伸、南北軸は万寿山を起点とする)。この日本による都市計画は、現在の北京の都市形態に大きな影響を与えている。
著者
小野田 滋 司城 能治郎 永井 彰 菊池 保孝
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.245-254, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
10

This paper describes the past and present state of railway tunnels, based on field surveys and historical records. In this second report the objects selected are the former Kyoto Ry. and Hankaku Ry., which were constructed to link Keihanshin district with Maizuru area in the 1890s, and the structural features of the tunnels on these railways are made clear here. These two companies were established with similar intentions, in similar periods, on a similar scale; later purchased by the National Railways of Japan, and now the greater parts of the lines have discontinued services upon completion of new lines. These tunnels are found very valuable as monuments to brick or masonry structures of the Meiji Era.
著者
知野 泰明 大熊 孝 石崎 正和
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.123-130, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
17
被引用文献数
1

In Japan, before river improvement works began from the age of civil strife wars in the 16th century, people had been allowing free floods on alluvial plains. It was construction of embankments in the river improvement projects that had gradually thrusted floods in river ways. In modern ages, embankments had become higher and stronger. Therefore, general people at present have naturally thought that rivers don't overflow their banks. Nowadays, if once we allow floods from rivers, it may cause heavy damages.In Japan, it is said that the river improvement works by using high embankments to protect cultivated lands against overflow have begun since the Kyouhou period (1716-1736) in the Tokugawa era.Nowadays, we can understand Water use and Control technologies at that time from literatures of the Tokugawa era. In order to know the change of river improvement methods of those days, we have tried to find out development of embankments in the Tokugawa era by using these existing literatures.
著者
越沢 明
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.181-192, 1989-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

戦前の昭和期 (1930年・40年代) は戦時色が強くなる時代の特徴から、都市計画はあたかも何の進歩もなく、暗い時代であったかの印象を持たれているが、これは事実に反する。むしろ日本初の本格的な都市計画事業である帝都復興事業の完成の後、その経験を生かし、また欧米都市計画の動向を踏まえて、日本の都市計画は新たな展開が図られている。函館は1934年の大火を契機として、全市街を広幅員の防火緑樹道路によって分断する構想が樹てられ、実現をみた。またこれは都市計画事業によってつくられた初の本格的なブールバールである。札幌はすでに既成市街地の街路が完成していたが、1936年、公園系統の考え方にもとづき、広幅員の放射環状道路を配置する雄大な街路網が計画された、また合わせて風致地区も計画されたが、これらの計画は戦後廃止されてしまった。帯広では1944年、街路網が決定された。これは斜路と広場を配置するなど従来の帯広の都市形態を発展させた都市デザインであったが、この計画も戦後、ほとんど継承されなかった。これらの市街地構成の原理と街路設計の思想は今日、なお学ぶ点が少なくない。
著者
福島 二朗 西片 守
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.103-109, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
14

本研究は、京と東国との大動脈であった東山道をとりあげ、古代から近世に至る間、その果たしてきた役割を時代ごとに明らかにすると共に、地方の地域社会発展にどのような影響を及ぼしたかを、東山道の経路に位置した栃木県足利市を例として考察したものである。今回は第2報として鎌倉~室町時代をとりあげたが、この時代は前代までの皇室・公家政権から武家政権へと移行した時代であり、鎌倉に幕府が置かれたことによって、従前の京都周辺に集中していた政治・経済・文化・交通が、鎌倉をも円心として二元化された時代であった。律令制下においては主に国家への貢納物輪送として使われてきた東山道は、中世に至って、荘園年貢物の輪送、さらに中央諸都市の発達と地方の領主層の成長に伴う地方産業の勃興により、商品輪送路としての役割を果たしたのである。又、前代末期に興った新仏教である時宗や禅宗が東漸したのもこの時代である。このような状況の中足利は、前代の郡衙・駅家が位置し東山道が近傍を通っている周辺に寺院が建立され、又市が立つなど、この地方の主邑として発展してきたが、このことは東山道を媒介とした文化や技術の伝播・交流が繁く行われてきたことを物語っているものと思われる。本稿ではこれらについて詳述した。[中世・道路・地域開発]
著者
杉山 和穂 笹谷 康之 小柳 武和
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.287-294, 1987-06-20 (Released:2010-06-15)
参考文献数
8

茨城県にある十王川は、流路延長16.5km、上流の河床勾配1/37、下流の河床勾配1/106で、流量が比較的安定している二級河川である。本研究ではこの十王川を対象に、河川構造物・工作物の建設にともなう河川空間の変化と、河川空間を利用してきた流域住民の行動・意識の変化とが、近代にどの様な関連性を持って推移してきたかについて考察した。その結果、十王川の流域は、昔ながらの川と人との深いつながりがある上流と、石炭洗いの汚濁を契機に川と人とのつながりが薄くなった下流に分かれて、変遷していったことがわかった。また、下流を主とする十王川の近代史は、人々の生活の中に川が深くかかわっていた第一期、水力発電という目的からのみ河川開発が行われた第二期、川が汚水の排水路になりさがり人々の意識が遠ざかっていった第三期、川の再生活動が始まった第四期に時代区分できた。水がきれいだった第一期、第二期に下流の中川根周辺では、落差が大きい等男の子向きの遊びができる男堰、水深が浅く女の子向きの遊びができる女堰があったり、ほていぢくと呼ぶ竹の水防林で、子供が遊んだり、たけのこを採るといった活動が行われ、河川空間の複合利用と使い分けがあった。しかし第四期では、治水、利水、魚釣りといった個別目的に沿って河川改修、利用が行われているが、第一期にみられたような多様な人々の活動を許す河川整備はまだ考えられていない。延長が短い急流河川だから、水質はかなり改善されたが、下流では、人々の川に対する関心は薄らいだままであった。
著者
松原 淳 山川 仁
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.250-257, 1986-06-25 (Released:2010-06-15)
参考文献数
9

大都市の機能のなかでは都心へ集中するものと郊外へ拡散するものがある。このうち郊外へ拡散する離心的機能を見せるものは住宅・学校・工場である。東京圏においては関東大震災以後急速に市街地が拡大したが、それには大正後期から昭和10年ぐらいまでに現在の路線網をほぼ完成した民営鉄道の役割が大きい。そこで本論では太平洋戦争前の郊外宅地開発と学校の郊外移転・増設についてその足となる民営鉄道との関係をを調査した。宅地・学校の郊外立地は交通の便が多大に影響する。そこで民営鉄道が沿線に宅地を開発し、本格的に鉄道と結び付けて宅地の分譲をしたのは大阪の箕面有馬電軌が最初である。東京では宅地開発会社である田園都市株式会社が分譲した宅地の足として鉄道が建設されるという新たな形態が生れた。民営鉄道の沿線開発にはこの二社に代表される二つのパターンがあり、どちらも市街地の拡大に対応したものだった。民営鉄道は旅客誘致策の一つとして学校の誘致を行い、土地開発会社である箱根土地株式会社は「学園都市」として開発を行った。また, 学園が郊外移転の際に資金捻出のために周辺宅地を開発分譲し学園町を作り出した。しかし、東京圏の学園町は欧米の学園都市と違い、ただの「学園のある町」にとどまる場合が多い。
著者
小野 芳朗 宗宮 功
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
日本土木史研究発表会論文集 (ISSN:09134107)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.38-47, 1983-06-24 (Released:2010-06-15)
参考文献数
64
被引用文献数
2

京都市水道は明治45年 (1912) に京都市三大事業の一環として敷設され、琵琶湖疏水を上水源とした。明治期における都市の水道建設の動機の例にしたがい、京都も古来より豊富良質とされていた地下水の汚染がコレラ等の伝染病流行の原因になったためとされる。ところがわが国には明治以後、上水道技術とともに下水道技術も同時に伝来し、いつれを先に建設すれば都市衛生上好結果をえられるか、という議論がなされている。京都においては、他の都市に比較すれば良質なる地下水を飲料水とし、市民の水道への関心はむしろ薄く、衛生上、下水道建設の要望が強かった。上水下水選択論争は、水力電力増強の目的も兼ねた琵琶湖第二疏水建設の計画の登場により、上水道工事優先が決定され、下水工事の着手は昭和に至るまで待たねばならなかった。