Kyoko Deguchi (@wood_odd_pansy)

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>当時の京伝が馬琴と同様な状態にあったことは、たとえば『忠臣水滸伝』(後編、享和元年刊)の刊記に 享和元年辛酉冬十一月発行 江戸通油屋町 蔦屋十三郎 同所 同梓 鶴屋喜右衛門< (出典: https://t.co/dE7AJnYeGP『月氷奇縁』の成立、より引用)
上に引いた一文は、上が山口彦次郎関連文書集成第二章『大寳永』(https://t.co/kX9Wcf3UHT)、下は名古屋工業大学学術機関リポジトリ『古今集遠鏡と横井千秋』(https://t.co/o8gNk8Vgre)より。横井千秋は宣長の門人で『古今集遠鏡』執筆を依頼した人物。上の論文には宣長からの書簡が載っています。

5 0 0 0 OA 西成郡史

毛馬閘門(水門)は淀川改修工事の最初の設備として、1907(明治 40)年、毛馬洗堰とともに完成したと、Wikipedia にはあります。一方「正式 2 万分 1 地形図」には、毛馬閘門も毛馬洗堰も存在しません。『西成郡史』(https://t.co/OJj4uZ4Mg5)にはこの毛馬閘門の写真が掲載されています(16/512)。

5 0 0 0 OA 西成郡史

ひらがなの旧字体(変体仮名)については、https://t.co/2flEyaLi94 が参考になります。古い時代の本は、ひらがなの「た」、「に」、「は」の形が全然違うので、読みにくいです。『西成郡史』(https://t.co/OJj4uZ4Mg5)はそうしたこともなく、現代人が違和感なく読める活字と文体になっています。
明治 42 年の地図で、旧中津川の埋め立て地にある学校は「修道館」ではなく「修徳館」でした。少年感化院のようなもので、明治 40 年 4 月に内務大臣の認可を得て、5 月に着工。12 月には第一期工事を完了して翌明治 41 年 1 月に開館を公布したと、沿革にあります(出典: https://t.co/eIBru8OkYk)。
このとき同盟通信社記者が持ってきた、わら半紙にタイプ印刷した「(秘)敵性情報」を仁科博士がそのまま保管しており、それが理化学研究所の仁科研究室から見つかったといいます。(出典: https://t.co/SpPf4DONpf『日本原子力学会誌, Vol. 51, No. 12(2009)』、または https://t.co/uOfpKiEFaR)
>7日早朝,要請が仁科に伝えられた直後,同盟通信の記者が,通信社内の情報局分室がアメリカの短波放送を受信して,B5判の藁半紙にタイプ印刷した“(秘)敵性情報”という極秘号外を持ってきた。<(出典: https://t.co/F1yiD4Gqso『日本原子力学会誌, Vol. 51, No. 12(2009)』)
この PDF は、次の DL ページから読み込むことができます。 https://t.co/bbzrDACMbO『日本原子力学会誌ATOMOΣ ISSN:18822606』 要約すると、8 月9日、仁科の指示で船舶司令部将校が被災地の各病院を廻り、X 線フィルムを集めて感光を調べた。結果は直ちに陸軍軍医学校に報告されたという内容です。
https://t.co/G2VuReyr7r に記載されている、仁科博士の指示で船舶司令部の将校が廻った病院は次のとおりです。 第二陸軍病院三滝分院(現在の広島市西区三滝町と推定、https://t.co/n8se7cAT0w に地図あり) 陸軍共済病院(広島市宇品町、現在の宇品神田) 吉島本町病院(現在の広島市吉島と推定)
(引用続き)共済病院(爆心より3.5 km)のフィルム, 吉島本町病院(爆心より3.0 km)の乾板もまた感光していなかった。 これらの結果は直ちに陸軍軍医学校に報告された。 (出典: https://t.co/JGKYpRVFM7) この PDF は読み込めないため、上の引用は部分的に検索したものをつなぎ合わせています。
三重県多気郡明和町斎宮に約 30 人在住する乾氏が、地域の古い豪族であることは、『斎宮村郷土読本』(https://t.co/TkYsoHutZJ「国立国会図書館デジタルコレクション」)にも書かれています。乾姓は奈良と大阪に数が多い。奈良県天理市の特徴的な名字には、上田、出口、小竹姓と共に乾姓が見えます。
(https://t.co/3igsm7oiOy『斎宮村郷土読本』より引用続き)しかも、伊勢國中に於て、殊に多気郡内に於て、第二第三の傳説地も参考地も現れない以上、最早や寮址の位置については一点の疑を挿む餘地が無いものと断言してよいと信じます。 斎宮寮址の位置については、不明とされていたのである。
前記の寮域内の字名や伝説と、この数多い舊蹟とから考察するならば、斎宮及び斎宮寮が、前述の地域に設けられてあったといふ想定を否定する譯には参りません。しかも、伊勢國中に於て、殊に多気郡内に於て、第二第三の傳説地も参考地も現れない以上(https://t.co/3igsm7oiOy『斎宮村郷土読本』より)
タイトル 神風之伊勢の海 : 歌道本義 著者 村山守雄 編[他] 出版者 村山竜平 出版年月日 昭和6 (国立国会図書館デジタルコレクション https://t.co/ETFJO8oIQj)

1 0 0 0 OA 河系の文化

「船木姓は神功皇后の外征用の船を造った功で皇后より賜姓のあった事になってい るが、姓氏録には摂津諸蕃に船連の名が見え、百済の帰化人となっている。最初は船史と呼ばれていたらしい。」(出典: 「河系の文化-住吉大社の所領と土地開発の問題-」https://t.co/yihPQJIWIz )
「これら奈良時代前半の遺構を分断するように、直線的に延びる斜行溝SD4500 は、第 3次(古里 B地区)北東隅から第 4次(古里 C地区)と第67次の間を通り、まっすぐに北東に延びるものである。」 『三重県斎宮跡調査事務所年報 1986 史跡斎宮跡 発掘調査概報』(pg.55)( https://t.co/pquWNpr3P1 )
『三重県斎宮跡調査事務所年報1986 史跡斎宮跡 発掘調査概報』( https://t.co/cWRVGMSyd6)pg.54 の「第 20 図」を見れば、SD4500 がまっすぐ西へ延びずに北へ迂回していることは明らかです。ただこれだけの結論が 1991 年まで持ち越されたばかりか、翌 92 年には再び計画調査の対象になっています。
『三重県斎宮跡調査事務所年報1986 史跡斎宮跡 発掘調査概報』( https://t.co/cWRVGNa94E)「第20図 古里地区の遺構の状況」(pg.54)では、古里 B 地区で検出された溝 SD4500(右側)が、左側の溝 SD6700 と交差して斜行し、古里 D 地区へ向かう位置関係がわかります。SD4500 は「古代伊勢道」です。
『三重県斎宮跡調査事務所年報1986 史跡斎宮跡発掘調査概報』のダウンロードは、三重県斎宮跡調査事務所年報( https://t.co/cWRVGNa94E …)で『史跡斎宮跡 1986 1987.3.31』を選択します。「第15図 第68次遺構実測図」(pg.43)で、左下(西南)から右上(東北)へ斜行する大きな溝が SD4500 です。
「現地は東・西・北の三方は松林に囲まれ、南面一帯は田圃に臨み、一叢の老樹林が鬱蒼として残存してゐます。」 (国立国会図書館デジタルコレクション『斎宮村郷土読本』pg.30/79 https://t.co/XUOAwX6r7B) 斎王森についての一節です。「斎王森」とは Google 地図にもある「斎王の森」のことです。
(和邇氏の)出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した 太陽信仰を持つ鍛冶集団とする説がある[1]。 (Wiki「和珥氏」の項より) [1] の脚注にある『日本古代王権形成史論』(山尾幸久著)に対する 書評が次の pdf. で読めます。 https://t.co/Y1wIa3IGad

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