著者
杉野 由紀
出版者
日本ロシア文学会
雑誌
ロシア語ロシア文学研究 (ISSN:03873277)
巻号頁・発行日
no.34, 2002

チュルコフの『からかい屋あるいはスラヴのスカースカ』(以下,『からかい屋』と略す)は,18世紀60年代に執筆された未完の散文小説である。再版を重ねたのち,最終的には全5巻にも及んだ『からかい屋』は,ロシア小説史における初期の長編小説と言えるのかもしれない。小説というジャンル形成の視点からこの『からかい屋』を見た場合,驚くほどバフチンの理論に合致することが多い。だが先行研究者たちの中でこのことを指摘する者は皆無に等しく,唯一D.ガスペレッティだけがいわゆるバフチンの「小説の第二の文体の流れ」とチュルコフの作品との適合性を指摘している程度である。発表では,バフチンが小説ジャンルの形成において重要な役割を果たしたとする「愚者の役割」を,チュルコフの『からかい屋』における愚者バラバン(註…この単語は「太鼓」も含意する)の行為と照らし合わせながら分析し,ロシア小説史におけるチュルコフの重要性を示す試みを行った。バフチンの言う「愚者の役割」とは,愚者が自らの「無理解」性によって高尚な現実を異化し,知恵との対話や論争を生み出すことであるが,『からかい屋』での愚者バラバンもまさしくその役割を担っている。散文を憎み韻文を愛するバラバンは,愛する女性に韻文でラブレターを書こうとするのだが,韻文を理解していなかったがために諷刺詩を贈ってしまう。又この逆に,バラバンは「偉大な故ロモノーソフ」(註…ロモノーソフは『からかい屋』出版の前年に没している)へ諷刺詩を書こうとするのだが,頌詩になってしまうエピソードもある。その他,恋をしたバラバンは読書に勤しむべく本を買うのだが,内容を理解できずに「高尚な書物を売り飛ばす」といった場面も見られる。こうしたバラバンの行為はすべてが象徴的であり,ロトマンの言葉を借りれば,「韻文対散文のアンチテーゼ」が示されていると言える。チュルコフは,愚者バラバンの「無理解」という力を借りることによって韻文の持つ型を崩しパロディ化を行っているのだが,このことの意味は大きい。『からかい屋』は,単に対象物を嘲笑することに終始している作品に思われがちであり,それゆえ正当な評価を得られないことが多いのだが,しかしバフチンの理論に則れば『からかい屋』はロシアにおける小説ジャンル形成史の中で重要な位置を占めるものと思われるのである。

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