著者
籾内 裕子
出版者
日本ロシア文学会
雑誌
ロシア語ロシア文学研究 (ISSN:03873277)
巻号頁・発行日
no.31, pp.98-108, 1999-10-01

二葉亭は「余が翻訳の標準」で, 「[欧文は]自ら一種の音調があって聲を出して讀むと抑揚が整うてゐる。即ち音楽的(ミュージカル)である。<・・・>處が, 日本の文章にはこの調子がない。一體にだら/\して, 黙讀するには差支へないが, 聲を出して讀むと頗る単調(モノトナス)だ。啻に抑揚などが明らかでないのみか, 元來讀み方が出來てゐないのだから, 聲を出して讀むには不適當である」と述べている。東京外国語学校でロシア人教師の音読による授業に親しんでいた二葉亭らしく, 「音読したときの調子」としての「音調」をはっきりと意識している。ところが二葉亭は続けてこう述べている。「けれども, 苟くも外國文を翻譯しようとするからには, 必ずやその文調をも移さねばならぬと, これが自分が翻譯をするについて, 先ず形の上の標準とした一つであつた」。即ち, 欧文には「音調」があり, 翻訳するにはその「文調」を移さなければならないと, 二葉亭は言い換えているのである。二葉亭が言う「音調」と「文調」には明確な使い分けはあるのだろうか。「予の愛讀書」に多少二葉亭の意識がうかがわれる。即ち「日本文にも文調がないではない, 所謂語呂-語呂は即ち文調である。然し日本の文調といふ奴は著しく明かではない。ないことはないがドウモハツキリせぬ。<・・・>聲を出して朗讀すると日本の文章はダラ/\/\して居るやうに聞え, どうも変化が乏しく抑揚頓挫が缺けているやうに思はれる。<・・・>[欧文の]文章も朗讀法によつて生きたり死んだりすることは事実であるが, 文章によつては或程度までは朗讀の巧拙に拘はらず文章其物の調子があつて, 従て黙讀をしても其者に調子が移つて, どんなに殺して見ても調子丈けは讀む者の心に移る文章がある」。この記事で二葉亭は「音調」という言葉を使わず, 音読した際の抑揚も「文調」に含んでいるようである。しかしながら音読した場合の調子と, 音読の巧拙に関わらずある程度伝わる調子を意識していたことは確かで, 前者を「音調」, 後者を「文調」としつつ, 混用することもあったということであろう。 「あひゞき」の調子について, 先行研究では次の特徴が指摘されている。[○!1]【】ロシア語の語順を忠実に移すため, 副文を先に訳さず倒置法の形をとる。[○!2]【】体言止め(ある状態を述べる場合)とデ止め(注釈的表現)の使い分け。[○!3]【】擬声語・擬態語が挿入される。[○!4]【】副詞や形容詞が積み重ねられる。[○!5]【】「あわあわしい白ら雲が空ら一面に」のように同音がくりかえされる。[○!6]【】原文の動詞過去形の重なりを「座して, 四顧して, そして耳を傾けて」のように同音で再現している。 いずれも首肯すべき指摘であり, 「あひゞき」の調子を担う特色である。しかし「音調」と「文調」という二葉亭の理解を用いて分析すれば, 二葉亭が原文のどのような音調を移植可能と考え再現したのか, 移植できなかった音調は何だったか, 音読によらずとも心に残ると考えた文調はどのように訳文に表現されたのかが明らかになるだろう。本稿では明治21年の初訳(1, 158-69)を取り上げ地の文の調子を検討し, 二葉亭の努力の跡をたどりたい。

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