著者
伊藤 三千雄
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.63, pp.653-656, 1959-10-10

中国人の横浜進出は、開港と同時であるが、Japan Directory・for 1885など、在日外国人住所録に附載されている営業案内には中国人で、Carpenter、Painter、House Builder、Contractor、そしてFurniture Makerなど建築技術関係の営業広告を出す例が多くあって、明治中期に至つても、在日外人を相手とする建設活動は、なほ西洋や中国の技術者によつて占められる割合が大きかつたと推定される。西欧建築の手法に熟達した中国人技術者の日本に於る活動は、工部省御雇外国人による技術系統の影にかくれているが、開港直後から居留地の建設作業に参加していたものと考えられる。中国人が西洋の建築様式に接するのは、広東、上海などの東洋貿易やキリスト教伝導布教の拠点においてゞあり、こゝで形成された西洋人と中国人の建築技術者の関係が、そのまゝの態勢で、日本の開港地に移ることは、当然考えられることである。横浜居留地の欧米商社で、日本人を指揮した番頭は、主として中国人であり、建設活動においても、西洋人に信任された中国人技術者の指揮がなければ、新開地に職を求めて集つた日本の職人達が、いきなり当面する、全く異つた作業を、西洋人の意図するまゝに円滑に進めることは、非常に困難なことである。横浜居留地で本格的な西洋手法を採り入れた建物は、主として中国人が請負ひ、或ひは西洋人建築家を助けて主要部分の工事を担当し、日本の大工・職人の西洋技法は、≪中国人の技術的通弁≫によつて理解し、修得されたものであり、この技術が日本各地における欧米様式の官公庁舎、兵営、駅舎、工場などの建築活動を裏付ける技術となつて、広ろまつていつたと考えられる。

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