- 著者
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奥谷 浩一
- 出版者
- 札幌学院大学
- 雑誌
- 札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
- 巻号頁・発行日
- vol.80, pp.143-176, 2006-11-16
江戸時代の日本が「鎖国」であったとする歴史観がこれまで日本近世史の見方を規定してきた。しかし,日本と朝鮮との間には室町時代から正式な国交関係が存在したのであって,豊臣秀吉の朝鮮侵略による中断はあったものの,徳川家康によって関係修復が行われて以来,江戸時代をつうじて12回もの朝鮮通信使が我が国に派遣された。朝鮮通信使は大陸の学術・文化を我が国に伝える唯一の機会であって,新しい徳川将軍の襲職を祝賀して使節団が来日する度に日朝両国の間では知識人だけでなく民衆のレベルにおいても大きな国際交隣の花が開いていたのである。ところで,こうした朝鮮通信使の軌跡をたどると問題になるのは,1764年の第11回の朝鮮通信使の来日の後は47年間の中断があり,しかも1811年に派遣された最後の第12回朝鮮通信使節は江戸ではなくて,対馬を往復するという変則的な事態となったことである。これは「易地聘礼」と呼ばれている。なぜ第12回の朝鮮通信使が対馬での「易地聘礼」にとどまったのか,そしてなぜこれが最後の朝鮮通信使となったのかについては,社会経済的理由や政治的理由から説明するもの,あるいは日本に歴史的に根強く存在してきた「朝鮮蔑視観」に根拠を求めるものなど,さまざまな見解がある。しかし,17世紀から18世紀の日本と朝鮮の思想の歴史から「易地聘礼」の理由を全体として概観する視点がこれまで不足していたように思われる。本論文では,日朝両国の思想の歴史という視点から,「易地聘礼」の思想的背景を明らかにしたい。