著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.81, pp.83-118, 2007-03-07

マルティン・ハイデガーが1933-34年の間,フライブルク大学の学長を務めたことはよく知られている。しかし,そのおよそ1年の間,彼は国民社会主義ドイツ労働者党,すなわちナチスの党員として,同大学のナチ化のために精力的に活動したことはあまり知られていなかったが,近年ヴィクトル・ファリアスとフーゴ・オットの研究によって,ハイデガーとナチスとの関係がこれまで考えられていた以上に密接で深刻であることが理解されるようになった。フライブルク大学学長ハイデガーは,その任期期間中にさまざまな諸事件にかかわっているが,そのなかで見逃すことができないのは,彼がいくつかの密告事件に関与したことである。そのうちのひとつが,世界的な化学者ヘルマン・シュタウディンガーにかんする密告事件である。この事件は,国家秘密警察,つまりゲシュタポによって「シュテルンハイム作戦」と名付けられた。この「シュテルンハイム作戦」は長い間歴史のなかに封印されてきたが,この封印を解いたのがオットの研究である。本論文では,このオットの研究と原典資料を踏まえながら,「シュテルンハイム作戦」,言い換えればシュタウディンガー事件の歴史的真実を明らかにするとともに,この密告事件を主導したハイデガーの思想と人格の暗部に迫ることにしたい。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.109, pp.1-36, 2021-02-26

謝花昇は沖縄の近代社会運動の先駆者である。明治期の沖縄では,いわゆる「琉球処分」によって琉球王国が廃止されて行き場を失った貧窮士族の救済を目的として,「杣山」の開墾事業が開始される。沖縄県庁の高等官・技師謝花昇は,沖縄県知事奈良原繁のもとで「杣山」開墾の事務取扱主任としてこの事業を推進する立場に立っていた。しかし,謝花と奈良原との間に潜在的にあった齟齬と対立が次第に顕在化する。謝花がこの開墾事業を純粋に農民と貧窮士族の救済のために遂行しようとし,期限付き無償貸与と「杣山」の森林環境に対する配慮という条件下で推進したが,時の権力者奈良原の側はそうではなかったからである。奈良原はこの開墾事業を土地整理事業の前段階と見なし,土地整理が終了した後は開墾地を払い下げて私有化することを目論んでいた。両者の対立は,やがて土地整理事業の推進過程で,奈良原側が「官地民木」を謳い文句にして農民たちを欺瞞し,彼らの反対と抵抗を押し切って,「杣山」を官有林に組み入れる政策を行うに及んで,決定的になる。これに対して謝花が主張したのが「民地民木」論である。そのために謝花は県庁を退職してこれと闘うことになる。謝花のこの「民地民木」論は敗北した。しかし,農民たちが自前で保護・管理・育成し,彼らの生活の糧でもあった「杣山」は農民たちによって共同所有されるべきだという彼の「民地民木」論は,現在のわが国の森林政策の行き詰まりと国有林の危機,これによる森林環境の国土保全力の低下,そして森林を地球的規模の公共財と考えるさいに,多くの手掛かりと暗示とを提供してくれるように思われる。本論文では,この「民地民木」をめぐる謝花昇の闘いの軌跡を追求するとともに,現在の環境論または環境思想から見た場合の彼の「民地民木」の意義を考察することにしたい。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学総合研究所紀要 = Proceedings of the Research Institute of Sapporo Gakuin University (ISSN:21884897)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.59-69, 2015-03

丸山眞男の『日本政治思想史』は戦後の日本思想史研究の画期をなす業績のひとつである.しかし,その後の日本思想史研究の蓄積は,この著作の時代的制約とさまざまな問題点とを明らかにしつつある.丸山は,東アジアの思想圏全体を俯瞰することなく,儒教と朱子学を我が国の封建制社会の支柱となった思想体系とのみみなし,江戸時代初期に強固に確立されたこの思想体系が荻生徂徠などの思想のインパクトを受けて解体され,これと並行して近代的意識が形成されたと解釈する.こうした理解は,この時代の複雑で豊かな思想空間を単純な図式によって把握し,限られた射程の準拠枠によって評価するものである.本論文では丸山のこうした日本思想史論の問題点をアウトラインにおいて提示する.Masao Maruyama's Nihon Seiji Shisoshi Kenkyu ("Studies on the Intellectual History of Tokugawa Japan")is among the landmark studies that were published after Japan's defeat in World War II on the history of Japanese thought. However, an array of studies on the history of Japanese thought following the work of Maruyama have elucidated various problems in, and wartime constraints on, this work. Maruyama did not expand his vision to look at other East Asian thought,and he regarded Confucianism and a Neo-Confucian school called the Chu Hsi School as the system of thought that had become the mainstay of Japanese feudalism. According to Maruyama, the system of thought that was solidified in the early Edo era was later broken down under the influence of the thought of Sorai Ogyu and others concurrently with the formation of a modern consciousness. This grasp of the history of thought in the Edo era presents a simplistic picture of the complex thought and the varied thinkers of those days, and Maruyama's frame of reference is not large enough to evaluate the thought of the Edo era. This study outlines some of the issues in Maruyama's studies on the history of Japanese thought.教養教育Liberal Arts
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.108, pp.1-33, 2020-11-20

ハイデガーは,『存在と時間』のなかで,「実在性」「主観・客観関係」「真理」にかんする独自の見解を主張している。われわれの意識の外部に客観的実在が存在するかどうかという問題は哲学の根本問題とされてきた。この問題にどう答えるかで,哲学上の立場と流派が決定されるからである。これと関連して,主観と客観との関係をどう見るか,真理をどう定義するかなどの認識論の基礎をなす問題群がある。伝統的な西洋哲学における存在論を「解体」または「破壊」して独自の思想を構築しようとするハイデガーは,この問題と関連する問題群とに対しても独自の立場を展開する。彼によれば,客観的実在をめぐる実在性の問題は人間存在である「現存在」のひとつの「存在様式」である。主観・客観の問題もまた「主体の実存様式に依存する」とされる。そして,「真理」にかんしても認識と対象との一致という伝統的な真理概念は妥当しないとされ,「真理」は「現存在」の中で「隠蔽」されていたものが「開示」されるという主観的な関係のうちで理解される。私見によれば,「独我論」へと傾斜する彼のこうした主観主義的立場が,いざ客体的存在を含めた彼自身の「存在」論を展開しようとする段になって,重大な困難をもたらしたように思われる。本論文では,ハイデガーの伝統的認識論に対する批判がいかなる意味をもつかを検討し,その批判の正当性と問題点とを批判的に考察する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.45-70, 2000-09

一連の論考の連載からなる本論文では, プレスナーの主著『有機的なものの諸段階と人間』において展開されている中心思想を対象とし, とりわけ「位置性」の理論に焦点をあてながら, 難解なことで知られるプレスナーの哲学的人間学の本質的な諸特徴を把握し, その人間学思想と, 「哲学的人間学」の定礎者シェーラー, そして同じ流れを汲むゲーレンの人間学思想との同一性と差異性とを解明することを試みる。前編においては, プレスナーの人間学の諸前提として, 生の哲学とのかかわり, 人間学にたいする課題意識, またカントの批判哲学および現象学的方法との関連におけるその人間学の方法的な独自性を考察した。本稿においては, デカルト的な心身分離論, ユクスキュルの環境世界説, ケーラーとドリーシュの論争との関連をふまえながら, プレスナーの位置性の理論の導入部となる生命あるものの「境界」の概念, そしてこれにもとづく有機的なものの本質諸徴表の理論の全容を究明する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.63-93, 2001-12

これまでの2回にわたる前編では, プレスナーの哲学的人間学のよって立つ哲学的諸前提とその出発点となった哲学的・生物学的論争について考察した。本稿からはいよいよ, その哲学的人間学の中心思想である位置性の理論の核心的な部分を取り上げる。まず本稿では, 有機的生命一般の本質的諸性質と, これを踏まえた植物的生命の本質的諸特徴とにかんするプレスナーの理論を解明し, 論評する。初めに, 生命体とそれの環境領野である媒体とのあいだに想定される境界, そしてこれにもとづいて生ずる位置性の概念のプレスナー的意味を再確認したうえで, 生命体一般がそなえる動態的および静態的性格, そして生きたものの自己調節可能性と調和等能性などにかんするプレスナーの理論を解釈する。そして, 開放的な有機組織形式をもつと特徴づけられる植物の位置性が生命循環のなかでどのように機能し, またそれが動物の位置性または位置形式とどのように区別されるのかを解明し, あわせてプレスナーのこうした接近の視点の積極的面と限界とを考察する。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.73, pp.21-50, 2003-03-20

本稿では,植物と動物の位置性にかんするプレスナーの理論を考察した前稿に引き続き,人間の位置性にかんする理論を検討する。プレスナーによれば,人間が環境領野にたいしてとる位置性は,植物の開放性,動物の閉鎖性・中心性とは異なって,脱中心性である。動物は,おのれのうちに意識と中心を有し,環境世界にたいしては行動図式をもって対処しうる。しかし動物は,空間的には<ここ>,時間的には<今>のうちに埋没し,これらと事物とを真に対象化することはできない。これに対して人間は,動物と同じく閉鎖的・中心的ではあるが,<ここ>と<今>にたいして距離を取り,「意識とイニシアティヴの主体」として,おのれの中心から外に出て,これらを対象化し,これらから離脱することができる。人間は,自我をもち,「消失点」または「眺望点」を自己の背後にもつ。しかし,自然による束縛を免れた人間には,動物のような自然的な場所と安定性はもはや失われ,自らの足で立たなくてはならず,場所も時間もなく,境界ももたずに,自らの力で進路を切り開かねばならない。こうして人間は,自然的技巧性を発揮して,道具を用いて文化を創造する必要に迫られ,媒介された無媒介性によっておのれを表出し,歴史をおのれの背後に残さざるをえず,そして世界のうちにおのれの本来の場所をもたない無場所的=ユートピア的性格のために,世界根拠または神への信仰という宗教的次元によっておのれの故郷へと還帰せざるをえない。われわれは,位置形式という首尾一貫した観点から植物・動物と人間との差異に一歩一歩迫っていこうとするプレスナーの理論から豊富な諸論点を大いに学ぶことができる。しかし,彼が空間的なイメージに固執して,人間の一切の営為を脱中心性という位置形式へと還元するあまり,一種の還元主義に陥っているのではないかという嫌疑もまた生じている。彼が言う「消失点」または「眺望点」も,人間の大脳化に伴って,自己自身を対象化しうるまでに発達を遂げた人間の自己意識から説明しうるのであるから,結局のところプレスナーはドイツ古典哲学における観念論的な伝統に回帰していると言わざるをえない。そして位置形式の差異から動物と人間を考察する限り,そこには両者のあいだに橋渡ししえない質的断絶しか見えてこないことになろう。ここにプレスナーの理論の時代的制約と限界があるように思われる。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.143-176, 2006-11-16

江戸時代の日本が「鎖国」であったとする歴史観がこれまで日本近世史の見方を規定してきた。しかし,日本と朝鮮との間には室町時代から正式な国交関係が存在したのであって,豊臣秀吉の朝鮮侵略による中断はあったものの,徳川家康によって関係修復が行われて以来,江戸時代をつうじて12回もの朝鮮通信使が我が国に派遣された。朝鮮通信使は大陸の学術・文化を我が国に伝える唯一の機会であって,新しい徳川将軍の襲職を祝賀して使節団が来日する度に日朝両国の間では知識人だけでなく民衆のレベルにおいても大きな国際交隣の花が開いていたのである。ところで,こうした朝鮮通信使の軌跡をたどると問題になるのは,1764年の第11回の朝鮮通信使の来日の後は47年間の中断があり,しかも1811年に派遣された最後の第12回朝鮮通信使節は江戸ではなくて,対馬を往復するという変則的な事態となったことである。これは「易地聘礼」と呼ばれている。なぜ第12回の朝鮮通信使が対馬での「易地聘礼」にとどまったのか,そしてなぜこれが最後の朝鮮通信使となったのかについては,社会経済的理由や政治的理由から説明するもの,あるいは日本に歴史的に根強く存在してきた「朝鮮蔑視観」に根拠を求めるものなど,さまざまな見解がある。しかし,17世紀から18世紀の日本と朝鮮の思想の歴史から「易地聘礼」の理由を全体として概観する視点がこれまで不足していたように思われる。本論文では,日朝両国の思想の歴史という視点から,「易地聘礼」の思想的背景を明らかにしたい。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.99, pp.77-110, 2016-02-01

ハイデガーが第二次世界大戦後に公刊した『ヒューマニズム書簡』は,小著でありながらきわめて重要な意味をもつ著作である。この書のなかで初めて彼自身の前期から後期への思想の「転回」が語られ,その後の後期思想のアウトラインが示されているからである。そして,これまでの西洋の伝統的な思想とその基調であったヒューマニズムを批判して,反ヒューマニズムの立場を公言する彼の議論は,彼がナチに所属していた時代との関わりにおいてもさまざまな議論を呼んでいるからである。本稿では,この小著が内包するさまざまな問題群のうちから,彼のヒューマニズム論に焦点を絞り,ハイデガーのヒューマニズム批判が意図するところを解明すると共に,1930年代からこの小著に至るまでの過程で彼の反ヒューマニズム的な立場がどのように進展してきたかを解明する。その結論として,彼の思想の展開過程のなかでは,存在,存在と人間との関わり,存在への接近の仕方などの点で思想の「転回」を示しているにも拘わらず,反ヒューマニズム論的な立場にはほとんど変化がないこと,彼が第二次世界大戦の結果としてのナチズムに対する歴史的審判の後にも強固に反ヒューマニズムの立場を維持し続けたこと,そしてこれらのことと彼のナチズムへの関与とが内的に深く,また強く通底していることが示されるであろう。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.78, pp.101-167, 2005-11-18

我が国では1997年4月に国会で臓器移植法が成立し,同年10月にこれが施行されてから8年が経過した。今日までにこの臓器移植法にもとづいて医学的な脳死判定が行われたのはすでに39例,脳死判定に引き続いて臓器移植が行われたのも38例を数えている。北海道でもつい最近2例目の脳死・臓器移植が行われたことは記憶に新しい。あの札幌医科大学の和田心臓移植事件で決定的に立ち遅れることになった我が国の脳死・臓器移植も,ようやく軌道に乗り始めたかに見える。しかし,臓器移植を必要するレシピエントの数に比べて臓器を提供するドナーの数が圧倒的に少ないという状況は変わっておらず,また書面による臓器提供者本人と家族との意思確認を条件とする我が国の臓器移植法は14歳以下の臓器移植を対象から除外している。そのために海外で臓器移植を受けようとする子供が後をたたず,海外での移植手術を待ちわびながら亡くなった子供が人々の涙を誘っている。このような状況をうけて,今年に入ってから自民党の生命倫理および臓器移植調査会が現行の臓器移植法を改正することに合意したが,意見がまとまらず,ふたつの臓器移植改正案を国会に提出することになった。しかし,周知のように,郵政民営化法案をめぐる衆議院解散の結果,これらの改正案の提出と国会での本格的な審議は秋の国会以降に持ち越されることとなった。私見によれば,現行の臓器移植法は,脳死を人の死とする根拠や脳死判定基準などにかんして多くの諸問題を含んでおり,しかもきわめて短時間の国会審議でとうてい国民的な合意が得られないままに成立した感を否むことはできない。今回国会提出が準備された臓器移植法改正案も,残されたこれらの諸問題を解決するのではなくて,その逆に,ドナーの確保を至上命令として問題点と矛盾とをさらに増幅しかねない危険な内容をもっていると言わざるをえない。本論文においては,現行臓器移植法の成立後に生じたさまざまな問題事例を踏まえながら,現行法の問題点を洗い直すとともに,今回の法改正案がもつ問題点を剔抉することにしたい。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.96, pp.77-99, 2014-10

アクセル・ホネットはいわゆるフランクフルト学派の第三世代にぞくすると評されるドイツの哲学者・社会学者である。その彼が『物化』を公刊した。この著作の意図は、マルクスによって創始されルカーチによって継承された物象化論に今一度アクチュアリティを与えようとするところにあるが、それはかなり特異な「物化」論でもある。その大きな特徴は、ルカーチの理論の読み換えを行い、彼独自の「承認」という概念を用いてこれを「物化」論に適用し、「物化」を「承認の忘却」として理解することである。しかし、こうした特異な「物化」論は、マルクスとルカーチによって定式化された物象化論から資本主義的商品交換社会という視点を排除し、本来社会的次元で生ずるはずの個々人どうしの「相互承認」の概念内容をも変更して、個人と環境世界との間の、しかも認知以前の「承認」へと拡大するとともに、個人的・人間学的な次元で読み換えようとするものであり、きわめて問題の多いものである。そしてそれは、その強引と思える読み換えと鍵となる概念内容の拡大によって、本来の物象化論がもつ社会批判としての意義を解消しかねないように思われる。本論文では、こうした観点から、マルクスとルカーチの物象化論に立ち帰ってまずその基本的思想を確認し、この準備作業から見えてくる、ホネットの「物化」と「承認」の理論がもつ問題点を分析する。論文
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学総合研究所紀要 = Proceedings of the Research institute of Sapporo Gakuin University (ISSN:21884897)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.59-69, 2015-03-31

丸山眞男の『日本政治思想史』は戦後の日本思想史研究の画期をなす業績のひとつである.しかし,その後の日本思想史研究の蓄積は,この著作の時代的制約とさまざまな問題点とを明らかにしつつある.丸山は,東アジアの思想圏全体を俯瞰することなく,儒教と朱子学を我が国の封建制社会の支柱となった思想体系とのみみなし,江戸時代初期に強固に確立されたこの思想体系が荻生徂徠などの思想のインパクトを受けて解体され,これと並行して近代的意識が形成されたと解釈する.こうした理解は,この時代の複雑で豊かな思想空間を単純な図式によって把握し,限られた射程の準拠枠によって評価するものである.本論文では丸山のこうした日本思想史論の問題点をアウトラインにおいて提示する.
著者
奥谷 浩一
出版者
北海道哲学会
雑誌
哲学年報 (ISSN:1344929X)
巻号頁・発行日
no.51, pp.49-61, 2004-07-16
被引用文献数
1
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.137-171, 2008-03

ハイデガーは,第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北の後に,政治的浄化委員会によって,フライブルク大学最初のナチ党員学長として活動したことの政治的責任を問われることになった。これが本論文で言う「ハイデガー裁判」である。フランス占領軍によって「典型的なナチ」と見なされたハイデガーは,フライブルク市内の自らの住居と蔵書の接収という危機的状況に直面して,この危機を回避するために「弁明」を開始し,「ハイデガー裁判」の過程のなかでこの「弁明」をさらに拡大・強化していった。この「弁明」は最終的には「1933/34年の学長職。事実と思想」という文書にまとめられて完成されることになる。ハイデガーの「弁明」は,自らとナチとの関係が最小限のものであったとする戦略で貫かれており,時には真実と虚偽を織り混ぜたりあるいは時には事実を隠蔽するというかたちでさまざまに展開されている。本論文では,この「ハイデガー裁判」の経緯と結末を追跡しながら,その過程のなかで展開されたハイデガーの「弁明」のはたしてどこまでが真実でどこまでが虚偽なのか,そして同僚たちの目に学長ハイデガーがどのように映っていたのかをやや詳しく検討することにしたい。この検討は,ハイデガーとナチズムとの真の関係を明らかにするとともに,ハイデガー思想の再評価という問題を提起する作業の一環にほかならない。