- 著者
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生澤 繁樹
- 出版者
- 一般社団法人日本教育学会
- 雑誌
- 教育学研究 (ISSN:03873161)
- 巻号頁・発行日
- vol.74, no.3, pp.335-347, 2007-09
M.ウォルツァーの配分的正義論は、他の財とは独立した財の独自な意味に応じて、さらには財の意味が解釈され共有される社会・文化・共同体の文脈に応じて、社会的財が複合的に配分されるべきだと論じるものである。ウォルツァーは、教育の領域においても、複合的な平等が考察されると考える。学校、教師-生徒関係、知識といった教育の財は、経済や政治の秩序に規定されない独自の自律した配分の過程を構成する。教育は、単なる私的な財ではない。私たちが集合的に願望する社会的財である。それは、私たちの社会・文化・共同体のなかに埋め込まれたものである。だが、この配分的正義の自律した領域というウォルツァーの構想は、不徹底であるばかりか、疑問である。というのも、もし私たちが社会的財としての教育の正義や配分の平等をまじめに考慮するならば、かれの考察は<善さ>や<承認>の主張を取り巻くパラドクスに必ず突きあたることになるからである。