著者
市原 純
出版者
帯広大谷短期大学
雑誌
帯広大谷短期大学紀要 (ISSN:02867354)
巻号頁・発行日
no.52, pp.39-49, 2015-03-31

教育という営為は、本質的に権力性を帯びる。教育を原理的に考えようとするならば、権力性の問題と向き合わざるを得ない。本稿では、ミクロなレベルで、教育という営為に権力性の分析を内在化させる原理について、考察を試みる。三脇康生の理論によると、ミクロな場面での権力性分析は、教育者/分析者が後向きの想像力を持ち、制度における分析の内在性を維持し続けることによって可能になる。すなわち、教育者/分析者が自らの政治的な欲望を自己省察しながら、他人に対する想像力を更新し続ける「制度分析」が必要になる。本稿の後半では、ラボルド病院の実践を検討する。そして、人々の無意識の欲望が間接的に出会うことによって、人々の間に制度分析を喚起させる欲望が立ち上がることを確認する。教育者/分析者自身が、自己/他者の無意識の欲望と間接的に出会うこと。この出会いが先にあり、教育という営為は成立する。この出会いを意図的に組織化していく責任の根拠として、教育原理は言語化される。

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→なお、僕はさらに、マックスの姿を、フェリックス・ガタリの姿と(正確に言うとガタリに依拠している三脇康生さんの思想と)重ねて、考えてみたいと思っている。以下の論文は、ガタリの姿と、三脇の理論を紹介してくれているが…(PDF注意)https://t.co/Pts53dXxJt

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