- 著者
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加藤 典洋
- 出版者
- 日本文学協会
- 雑誌
- 日本文学 (ISSN:03869903)
- 巻号頁・発行日
- vol.44, no.4, pp.36-46, 1995
<文学として読む>とはどういうことか。自分の経験に即し、二つのことを述べます。それがどういうことか、またそのことの中に、文学のどういう問題が現れているか。これまでわたしがやってきた仕事を振り返ると、わたしは批評と自分の接点をこの<文学として読む>ところに見出してきたといえそうです。はじめの本『アメリカの影』はいわば国際政治学の問題「無条件降伏の思想」を文学として考える、というものだったし、第四の本『日本風景論』はこの<文学として読む>をさまざまな文化・歴史・社会の現象を「意味抜き」する<風景化>という概念のもとに方法化したうえで、それを実践したものでした。また、最近出した第七の本『日本という身体』は、それをある手がかりをテコに、極端化して試みた日本近代の記述を<文学として読む>企てだったと、いえなくもないからです。ここからもわかるようにわたしにとって文学でないさまざまなものを<文学として読む>とは、まずこれを門外漢、何者でもないものとして、白紙還元して考える、自分にも、あるエポケー(一時的判断停止)を施し、バカになってことに当たる、という方法論を意味しています。これが批評の起点となったのは、『アメリカの影』を書いた時の話になりますが、まず「無条件降伏論争」というものがあった。わたしにはここに問題とされている「無条件降伏」が、中途半端な、文学的な政治解釈の一例を出ていないものと感じられました。先入観を持たない門外漢が第一次資料に当たり、"はじめの疑問"だけを手がかりにことに当たったらどうなるか。いったんこれを国際政治学の問題として徹底して考える、中途半端な「文学」をこうして消毒する。カエサルのものをいったんカエサルに「差し戻す」、その時こちらは門外漢の位置に下落する、それで結構、それがわたしの考えたことでした。またその"はじめの疑問"とは、なぜ急に「無条件降伏」などという不思議な感触を持つ政策思想がアメリカ合衆国から出てきたのか、何か西洋近代とは異質な感触が、この思想にはある、という直観だったとは、本に書いた通りです。次に、こういうことが文学観としてどういう問題をはらんでいるか、ということがあります。ボルヘスが「私は誰か[何者か](somebody else)の文体でではなく、誰でも(anybody else)の文体で書かれた本を書くだろう」と言っていますが、わたしは、文学には二つがあると思う。something elseとしての文学と、ここにいうanything elseとしての文学と。ボードレールが言ったのもsomeではないany-"anywhere out of the world"-ではなかったでしょうか。では、something elseとしての文学とはどういうものか。筒井康隆氏が最近、断筆宣言をしましたが、その時、人間には悪が必要だといって、文学は悪だ、という意味の言い方をしました。それが文学を特権化した言い方ではないか、と批判を呼びましたが、ここに現れているのが「何者か」としての文学、something elseとしての文学です。しかし文学というのは不思議で、荒野でしか育たない、それは温室に入れられ、何かの理由になったり根拠にされるととたんに枯れる。そういう意味でも、それは「悪」の花です。<文学として読む>。その意味は、ある問題をanybody elseとして読む、ということ。その時文学は、何者か、という特権、限定、自己同定からはずれた「誰でも」の存在です。これを単なる技法、狭義の方法などとみなさないことが肝心だろうと思うのです。