- 著者
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Weber Till
- 出版者
- 琉球大学法文学部国際言語文化学科欧米系
- 雑誌
- 言語文化研究紀要 (ISSN:09194215)
- 巻号頁・発行日
- no.13, pp.25-43, 2004-10
本稿は、日本に来た最初のドイツ人の一人、ウルム(Ulm)出身の鋳物師(Stückgießergeselle:平時には鐘や大型の料理用鍋、戦時には大砲の砲身を鋳造)ハンス・ヴォルフガング・ブラウン(1609年~1655年以降)を扱っている。ブラウンは、1627年彼の故郷ウルムを去り、30年戦争の影響をあまり受けなかったアムステルダムへ行った。日本へ彼がやって来たのは、他の初期のドイツ人と同様、オランダ東インド会社(VOC)の任務の為であった。1639年彼は九州の平戸でオランダの商館長フランソワ・カロンの命により徳川幕府の為に三門の臼砲を鋳造した。幕府は、前年に島原を攻囲した際(島原の乱)の苦い経験から、攻城の為にこの新種の武器に大いなる興味を示した。オランダ人にとってこの技術の輸出は、鎖国政策を完結する最終段階に及んでは、将軍の好意を得る打って付けの好機であった。1639年6月16日東京の麻布で、幕府の代表者らの面前でブラウンが鋳造した臼砲の試射が劇的に行われ、成功裏に終った。カロンの日記や『徳川実紀』によれば、ブラウンは沢山の報奨金と褒美を得たという。オランダ人が1640年~41年日本国外追放の運命から逃れ、長崎出島に留まることを許可された一方で、日本に近代兵器の技術を提供するという彼らの気力は益々失せていった。1650年以来、幕府の臼砲に対する興味も薄らいで行った。西洋の作家たち(例えばペリン 1979年)や「ザ・ラスト・サムライ」(2003年)のような映画は、誤った歴史像を大衆に伝えようとしているが、実際には火器は一般には幕府や大名、あるいは侍から拒絶されてはいなかった。なるほど16世紀から18世紀まで日本における火器はさまざまな流派の極秘の知識としてのみ知られ、故に公にされてはいなかった。しかし平戸の松浦史料博物館の千歳閣に展示されている小臼砲、城門破り用砲筒(恐らくは18世紀)のように、実際に博物館に展示品として所蔵されている例もあるので、その後も少しは西洋の臼砲技術へ近づこうとしていたことが窺える。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンに関しては、彼が1640年以降にアムステルダムへ戻り、結婚し、1649年から1653年まで彼の故郷であるウルムで暮らしたことが知られている。彼がそこに住んでいた、ということが高く評価されている。そのことは、ウルム市議会の決議やヨゼフ・フルテンバッハの手書きの市の年代記によって裏付けられる。ブラウンに関する最後の記述には、1655年再びオランダ東インド会社(VOC)の任務でバタビヤ(ジャカルタ)の市の城壁でcapo、すなわち大尉として重火器に従事していた。と書かれている。以下のラテン語の碑文が、ブラウンによって最初に平戸で鋳造された臼砲に刻まれている。HANS WOLFGANG BRAVN VON ULM ME FECIT FIRANDO 1639(ウルム出身のハンス・ヴォルフガング・ブラウンが1639年平戸で製作した.)この臼砲は1930年代まで東京の遊就館で展示されていた。1945年アメリカ軍がこれを押収し、それ以来この臼砲の行方は分かっていない。しかし1936年に複製された臼砲がウルム市博物館にあり、この臼砲を基に東京の遊就館の為に一門が鋳造された。そしてこの臼砲を基にさらにもう一門が2000年、日蘭交流開始400年記念祭を機会に、平戸の松浦史料博物館の為に鋳造されている。