著者
Weber Till
出版者
琉球大学法文学部国際言語文化学科欧米系
雑誌
言語文化研究紀要 (ISSN:09194215)
巻号頁・発行日
no.15, pp.65-90[含 日本語文要旨], 2006-10

本稿の目的は、ドイツ人にとって困難で苦悩に満ちた、ナチズムが犯した犯罪、とりわけ約600万のユダヤ人殺害(ホロコースト)に対する彼らの責任と罪の重さの問題を、西ドイツの学校の歴史教科書が、いつから、そしてどのような状況下で、公然と批判的に論じてきたかを明らかにすることにある。西ドイツの歴史は、以下のように区分できる:アデナウアー時代(1949-1963)は公の場でも学校でも、罪を沈然し、相対化し、隠蔽していた。多くのドイツ人が、そのような状況下で苦しんでいたので、自分自身を戦争の犠牲者と見做していた。この初期の西ドイツでは、戦争によって荒廃した状況を改善し、自分の家族のために安全と裕福さを求めることが優先された。過去に関する批判的な疑問は、大抵のドイツ人やドイツ政府から煩わしいと感じられていた。新しい国が安定し、60年代末期になり学生運動が盛んに行われる時代となると、この問題に取り組むことを阻むものは何もなかった。ナチ時代の親の役割についての世代間の軋轢、1969年にはじまって、ドイツの暗い過去を扱う際には誠実さをもって尽力した。連邦首相ヴィリー・ブラントの改革へと至った。そして学校の教科書『歴史への問い』(1977年)は、明確にこの変化を反映している。教科書の内容だけではなく、教授法的な考え方も変化している。生徒たちは以前よりも多くの自主学習をできるようになった。同時に、彼らは社会全体が民主化へと進行する中で、学校と歴史教科書の部分的な民主化は一体何を意味するのかを熟考する機会を得た。ドイツでは老いと若きとの、保守派と革新派との間で長期に亘って論争が続けられてきたが、1945年5月8日のヨーロッパでの終戦40周年にあたって、ドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーによって行われた有名な演説は、罪の一般的な告白と過去を真剣に克服する為に共に努力しようという合図となった。その翌年の教科書は、明らかにヴァイツゼッカーの論拠を反映しており、これ以来(西)ドイツ人や教科書の過半数の支持を得て、ナチの犯罪をも扱うようになった。考察の結果、学校の教科書は、過去において支配していた見解を垣間見るのに有益な歴史資料であることが明らかとなった。その際、ドイツの歴史教科書は政治の急激な変動のみならず、住民の態度や感情、さらに50年以上に亘る学者や教師の研究や教授法の変遷をも反映している。

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