著者
長谷川 成一
出版者
弘前大学大学院地域社会研究科
雑誌
弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-63, 2009-12-28

本稿では、近世津軽領を素材として、新たな絵図の解析と同藩の森林台帳・沢絵図の分析から、近世津軽領の林政・森林経営を探る上で基本的な研究素材となる領内の植生を復元し、十七世紀から十八世紀にかけての約百年間にわたる植生景観の変容について考えてみたい。 「津軽国図」によって復元した十七世紀末の領内植生から、津軽領では、斫しゃくばつ伐が比較的やりやすく、岩木川などを活用した、材木の大消費地である都市や港湾へ運搬の利便性の高い山地に開発の集中する傾向があった、と言えよう。寛政期津軽領の植生復元図によると、十八世紀後半から末にかけての津軽領における植生景観は、十七世紀末の「津軽国図」に見られたそれと比較して、大きな変化は認められない。ただし、いくつかの地点で明らかに檜・杉などの森林が消滅した形跡はあり、開発の手は次第に奥山へ延伸していったと推定される。津軽半島の陸奥湾に面した山々や八甲田の南部境、碇ヶ関の秋田境など、市場において高価格での販売が可能な、檜・杉など高質の針葉樹の伐採と搬出の可能な限定された地域にあって、過伐→荒廃→休山のサイクルを繰り返す状況にあったようだ。 弘前藩では、天明大飢饉を契機として、領内にかつてないほどの広範な御おすくいやま救山の設定がなされた。御救山が森林資源の枯渇を誘発したことから、十八世紀末に至って、弘前藩には、領内山林に大幅な手を加える財政的な余力はすでに尽きており、森林景観を変更するような政策を打ち出せなかったと考えられる。秋田藩のように森林資源の枯渇を防ぐために、藩が主体となって植林を実施した形跡は、弘前藩には認められない。弘前藩では、藩庁の手による植林によって山勢回復を図ることなく、民衆に植林を促す仕立山の制や天然更新による森林資源の回復を待つ方策だったことから、十七世紀末から十八世紀末にいたる約百年間の植生には、大きな変容は認められなかったのである。

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[論文][生態学]

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