- 著者
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宮川 朗子
- 出版者
- 広島大学大学院文学研究科
- 雑誌
- 広島大学大学院文学研究科論集 (ISSN:13477013)
- 巻号頁・発行日
- vol.69, pp.61-77, 2009-12
パンフレは、詩や小説よりも文学的ジャンルとは見做されにくいものの、フランス文学における雄弁術の伝統に位置づけられうるものであり、いつの時代にも愛読者を獲得してきた。また、近年の研究では、その作者のイデオロギーがいかなるものであれ、パンフレには、共通する攻撃の戦略や発表方法などがあることが明らかにされてきた。この点は、十九世紀後半で最も知られたパンフレといって過言でないゾラの«J'accuse...!(私は告発する...!)»と、ゾラが文壇に登場したころからの敵であり、このパンフレに反応し、以前よりもさらに強力なゾラに対する誹謗中傷をJe m'accuse...(『私は自分の罪を告発する...』)というタイトルの下にまとめたレオン・ブロワのパンフレについても確認できる。つまり、彼らの立ち位置の違いにもかかわらず、その攻撃は、ゾラが軍法会議ではなく軍人の人格攻撃をしたことや、ブロワが、«J'accuse...!»よりも、むしろゾラの小説『多産』を誹謗しながら、やがてゾラに限らず、政治家や文学者、新聞など四方八方にその攻撃の矛先をむけたことに認められる。つまり、どちらも敵の論に正面から対立する論をぶつけるというやり方ではなく、いわば、対立する敵の争点とは関係ない点を攻める方法を取り、その攻撃も次第に脱線してゆくのである。ところで、その一種卑怯な戦法は、逆説的ながら、ゾラがその後に発表する『四福音書』の小説の文体を準備し、理想社会を描くためのエクリチュールに転化させたように、あるいは、ブロワがひたすら下品な言葉で罵りながらも自らの信仰の真実に到達しようとしたように、理想世界観の記述へと容易に転化しうるのである。彼らの攻撃のエクリチュールは、理想への接近を探求し、果てしなく続けられる文体練習なのである。