- 著者
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及川 典巳
OIKAWA Norimi
- 出版者
- 岩手大学人文社会科学
- 雑誌
- 思想と文化
- 巻号頁・発行日
- pp.451-463, 1986-02-05
12世紀のプロヴァンスの詩人ジョフレ・リュデルの小伝によると,この詩人はトリポリのさる身分高き婦人の噂を耳にするにつれ,やがて見もしらぬ彼女に恋心を抱くようになったという。彼女の美の令名はそれほどまでに高かったのである。波濤を渡り,海原を越える旅に出た彼は,ついに病に倒れた。しかし,念願であった貴婦人を一目垣間見ることが叶い,この世を去ったという。この話は愛が言葉というものによって呼び覚まされるものだという実例である。ジョフレという詩人が辿った愛の経過はチョーサーのクリセイデが辿った道ではない。だが,彼女の恋は,ジョフレのほうが東方からの巡礼の言葉から生まれたように,パンダルスの語るトロイルスについての言葉によって芽生えたのである。トロイルスが,人の子の恋が常にそうであるように,パラスの寺院で彼女の美を目にして恋におちたのとは対象的なのだ。『トロイルスとクリセイデ』(以下『トロイルス』と略す)第二巻の詩行の大半はそのような言葉のために当てられたといってもよい。チョーサーの構成の工夫,またパンダルスの意識は,言葉を通して彼女の心にトロイルスのイメージを喚起することにあった。詩人はこの作品の原典としてポッカッチョの『恋のとりこ』を主に使用しているが,『テーベ物語』を聞く場面,クリセイデの聖人伝への言及,パンダルスの対話,アンチゴーネの愛の喜びを歌う歌など,かずかずのモチーフが彼の独創となって原典を敷術している。そのような要素のなかの一つに書簡がある。それは詩人の全くの独創とはいえないのかもしれないが。