著者
柳内 忠剛
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.477-492, 1986-02-05

我が国においては近年とみに国際化の必要性とか国際人の養成とかが各方面で叫ばれ,また我が国は国際的に誤解されているとか,文化摩擦とかいうことが一般の話題にもなるようになってきた。そしてそのような話題を論ずる際に,しばしば日本と外国,あるいは日本人と外国人の間のコミュニケーションが問題点のひとつとして言及される。そこで本稿では異文化間のコミュニケーション,特に日本文化に帰属する我々日本人と日本文化に属さない日本人ではない人々とがコミュニケートしようとするとき,どのようなことが問題として生じ,それらを解決するには,またはより好ましくは,そのような問題が生じないようにするためには,我々にはどのようなことが必要であるかを考察し,その際大方の日本人の閉ざされた意識を解放することが何よりも大切であることを指摘する。
著者
藤江 昌嗣 FUJIE Masatsugu
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.597-609, 1986-02-05

確率に関する歴史的研究は,Ⅰ.Todohunter の大著"A History of the Mathenmatical Theory of Probability"[1865](『確率論史パスカルからラプラスの時代までの数学史の一断面』安藤洋美訳1975)をはじめとして多くの蓄積があるが,それらの対象の扱い方は, Todohunter の著名(副題)に見られるように,確率に関する諸法則・諸定理が各人によってどの程度まで完成されたものになっているかという観点が柱になっていると思われる1)。確率 Probability という概念がどのように形成されてきたかをその前提条件と共に問い直すという作業は著者の知る限りではあるがほとんど存在していないといえる。こうした問い直しは,頻度説・信頼度説として一般に知られているD.Huffによる統計的確率と帰納的確率の関係,更に確率的思考の認識あるいは科学にとっての意味を考えることにとり決して無意味なものとはならないであろう2)。本稿は,こうした問い直し作業の一つとしてなされた I.Hacking の『確率の出現一確率,帰納そして統計的推測についての初期の概念の哲学的研究』(以下Emergence と略す)をとりあげ,その内容の紹介と若干の問題・課題の提示を目的とする3)。
著者
菊地 良夫 KIKUCHI Yoshio
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.385-401, 1986-02-05

ボーヴォワールSimone de Beauvoirのテーマとなるのは自由とか他者であり,この観念的テーマの分析には,実存主義の視点から検討されるのが一般的である。『招かれた女』L'invitee のテーマもまたそのタイトルの示すように「招待されたよその人,つまり他人」1)であることは明白であり,その上,題辞として使われたヘーゲル Hegel の「おのおのの意識は他者の死を求める」Chaque conscience poursuit la mort de l'autreという引用文が,この作品への接近法をますます実存主義哲学の視点へと向わせている。ところで本稿で注目したことは,鏡あるいは鏡像の使用が単なるエクリチュールの装飾にとどまっているのであろうか,という点である。ボーヴォワールが用いた鏡や鏡像の手法がどんな役割を果しているのかを追跡するのが本稿の目的である。スタンダール Stendhal の「小説,それは往来に沿って持ち歩かれる鏡である」 Un roman:C'est un miroir qu'on promene le long du chemin 2)に示されるように,鏡は現実の忠実な反映を示すものであったり,マニエリスムの鏡3)のように現実のゆがめられた反映であったり,その諸相は人間の歴史と共にさまざまな役割を果しつつ変遷している。時代をさかのぼれば,ギリシャ神話のナルシスは典型的な鏡のテーマを示すものである。ボーヴォワールと鏡については,オーデ Jean-Raymond Audet がナルシスムのテーマなどと一緒に鏡のテーマが,作品に見られることを指摘しているが,それは主要テーマではなく,副次的テーマであると言及するにとどめている4)。視線と鏡の役割を指摘したガニュバン5), あるいは,ムーニエ Emmanuel Mounier の援用によって,他者の視線のもつ「衝撃的視線」un regard bouleversant について語るジャカール6)等に見られるものは,ギリシャ神話のメドゥーサの視線が見る者を石化するというイメージに示される主体と客体との間に発生する物化現象についての実存主義的分析である。本稿の目的とするところは,実存的視線-見る-の行為に焦点をあてるのではなく,視線の反映-鏡-の役割についてである。メドゥーサの視線の興味深い点は,その視線それ自体で石化できるのではないこと,つまりメドゥーサを「見る人」がメデューサによって「見られる人」になったとき「メデューサ現象」すなわち石化が完成するところにある。これこそ鏡の本質ではないだろうか。鏡それ自体は無の作用である。鏡像があって,はじめて鏡はその機能を発揮する。そこでは「見る人」は「見られる人」という無限反復が繰返されている。
著者
長野 俊一 NAGANO Shunichi
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.403-416, 1986-02-05

エヌ・ゲー・チェルヌィシェーフスキイの長編小説『何をなすべきか』第3章29節は,「特別な人間」<Ocoбeнный челoвeк>という独自の表題を持つ。それは恋愛小説もしくは家庭小説仕立ての物語的展開(「開かれた筋」1))を中断するように嵌め込まれたひとつの挿話である。挿話あるいは挿話的人物は,『死せる魂』のコペイキン大尉の物語や『戦争と平和』のプラトン・カラターエフの例を持ち出すまでもなく,その属性の一部である偶発性・意外性によってしばしば異彩を放ち,読者の注意を惹きつける。「特別な人間」ラフメートフの挿話も例外ではない。さらに加えて,この場合,第29節とそれに続く第30・31節は,作者からの内報を担った「イソップ的筋」(革命的蜂起のアピール)の中枢を占め,小説の構造上不可欠の体系をなしている。これらの数節において,政治的暗示のかずかずを受けとめ,寓喩を解読し,ラフメートフその人にアピールの仲介者,革命的思想の具象化を見出すのはそれほどむずかしいことではない。実際,われわれの先人たちは,ピーサレフもプレハーノフもルナチャールスキイもレーニンも,みなそのように読んできたのだし,作品の注解者たちはこうした読み方の歴史的裏づけをとることに専心してきたのである2)。だが考えてみれば, どうやらこのような読みを可能にしているのは,作者の伝記的事実の知識でも,主人公のプロトタイプを特定することでもなく-だからといって私はそうした基本的作業の必要性を否定しているのではない-むしろ,作品の構造それ自体であるらしい。つまり,テキスト外的・言語外的事実,いわゆるレアリアrealiaの単なる寄せ集めではなく,挿話の言語芸術としての特質,なかんずくイメジャリー(イメージの集合体)構成のあり方とそれを支えているチェルヌィシェーフスキイのレトリックの独自性なのである。「特別な人間」のイメージの造形,彫琢に際しての作者の砕心ぶりは,「文学記念碑シリーズ」版『何をなすべきか』(1975年 3)) に収録されているテキスト・草稿・浄書原稿の断片のそれぞれを比較対照することによって明らかになるだろうが,ここでは本文批評そのものを取り上げようというのではない。個々のイメージとその集合体イメジャリーの構成原理が,挿話の構造内部でどのように機能しているかを探ってゆく過程で,さまざまのレヴェルの「暗示」をいくらかでも明示化することがこの小論のねらいである。本論に入るまえに,必ずしも統一され固定化しているとは言い難い「イメージ」なる用語の,本稿での用語法について一言しておきたい。ここでいうイメージとは,心理学でいう心象,美学・文芸学でいう形象の狭義に用いられるのではなく,比喩や象徴の転義を含めた,場合によってはフィギュアfigureをも含めた広義の概念として用いられるものである。それは当然,「暗号記法」<тaйнoпиъ>またはいわゆる「イソップの言語」<эзoпoвязык>をも包摂することになるだろう。
著者
及川 典巳 OIKAWA Norimi
出版者
岩手大学人文社会科学
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.451-463, 1986-02-05

12世紀のプロヴァンスの詩人ジョフレ・リュデルの小伝によると,この詩人はトリポリのさる身分高き婦人の噂を耳にするにつれ,やがて見もしらぬ彼女に恋心を抱くようになったという。彼女の美の令名はそれほどまでに高かったのである。波濤を渡り,海原を越える旅に出た彼は,ついに病に倒れた。しかし,念願であった貴婦人を一目垣間見ることが叶い,この世を去ったという。この話は愛が言葉というものによって呼び覚まされるものだという実例である。ジョフレという詩人が辿った愛の経過はチョーサーのクリセイデが辿った道ではない。だが,彼女の恋は,ジョフレのほうが東方からの巡礼の言葉から生まれたように,パンダルスの語るトロイルスについての言葉によって芽生えたのである。トロイルスが,人の子の恋が常にそうであるように,パラスの寺院で彼女の美を目にして恋におちたのとは対象的なのだ。『トロイルスとクリセイデ』(以下『トロイルス』と略す)第二巻の詩行の大半はそのような言葉のために当てられたといってもよい。チョーサーの構成の工夫,またパンダルスの意識は,言葉を通して彼女の心にトロイルスのイメージを喚起することにあった。詩人はこの作品の原典としてポッカッチョの『恋のとりこ』を主に使用しているが,『テーベ物語』を聞く場面,クリセイデの聖人伝への言及,パンダルスの対話,アンチゴーネの愛の喜びを歌う歌など,かずかずのモチーフが彼の独創となって原典を敷術している。そのような要素のなかの一つに書簡がある。それは詩人の全くの独創とはいえないのかもしれないが。
著者
藤原 暹 FUJIWARA Noboru
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.159-172, 1986-02-05

S.スマイルズの著作について,柳田泉氏は次のように述べている。『自助論』の成功から,彼は伝記の外に,同種類の通俗倫理書を次々と出した。『人格論』(Character)1872,『節倹論』(Thrift)1875,『義務論』(Duty)1880,がそれである。この四部は恐らく新訳聖書の四福音書に擬して書かれたものではなかろうかと思うが,少なくとも,スマイルズの四部の修養書として数十年間四福音書についで重視されたことは事実である。……尚これら四部の書は明治の後期に新訳されて歓迎を新にしたものである1)。おそらく,柳田氏の指摘するように,『自助論』と並び『人格論』,『義務論』,『節倹論』の四書がいずれもキリスト教の「神」の摂理に基づく新しい産業社会人への福音書的役割を果たしたことは否めない事実であろう。しかし,スマイルズ自身が「本書は自助論,品性論の続編にして……幾多の新しさ例証を包含す」と述べ,更に「過度の頭脳的労働及び健康の要件の二章は……主として著者の経験を論拠とせり」2)と自負している『労働論』を無視していることは問題であるように思われる。しかも,この労働論』は後に詳述するように『自助論』が説く自立の為の勤労(Industry)を重視するというものではなくて,娯楽(Recreation)を自立の根拠においているのである。そこで,本稿においては,『労働論』の内容を『自助論』と対照しながら考察し,それが単なるスマイルズ個人の問題でなく,やがて生じてくる社会的弊害への警鐘であったことをみる。次にそのような『労働論』は如何に日本人に受け止められてきたのか(或いは,軽視されてきたのか)を考え,更にそのような状況は日本思想史上で如何なる問題をもっているのか,等について考察することにする。
著者
広瀬 朝光 HIROSE Tomomitsu
出版者
岩手大学人文社会科学部
雑誌
思想と文化
巻号頁・発行日
pp.173-186, 1986-02-05

芸術家高村光太郎は,彫刻家であり,詩人でもあり,また翻訳の分野においても活躍しており,日本に西欧の文物を数多く紹介した人としても知られている。彼は明治16年(1883)に彫刻家高村光雲の長男に生まれ,幼少時より父光雲の跡目を継いで彫刻家になるべく運命づけられていたが,一方彼には文芸に寄せる関心にも並々ならぬものがあって,18歳の青年期には,『読売新聞』の角田竹冷選「俳句はがき便」に鶴村の名で応募して秀逸の部に入選したり,雑誌『明星』第7号(明治33・10)に墓碑雨の名で短歌五首が載せられたりしている。彼が彫刻に身を入れるのは,明治30年(1897) 9月に東京美術学校予科に入学してからであり,18歳のときには上野公園第5号館で開かれた青年彫刻塑会展覧会に塑像「観月」を出品し,他に浮彫の彫刻「祖父中島兼松像」を残している。彼がフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンFrancois Auguste Rene Rodin(1840-1917)の名を初めて白井雨山より聞いたのは21歳のときであり,丸善でモークレールの英訳本"August Rodin;The man-Hisideas-His works"を手に入れて熟読したのは23歳のときに当たる。