- 著者
-
福田 孝一
- 出版者
- 福岡医学会
- 雑誌
- 福岡医学雑誌 (ISSN:0016254X)
- 巻号頁・発行日
- vol.97, no.6, pp.160-174, 2006-06-25
今からちょうど100年前の1906年11月11日, ストックホルムで行われたノーベル医学生理学賞の受賞講演は, きわめて異例のものとなった. その年の受賞者は, 脳のミクロの構造の解明に大きな業績をあげた二人の解剖学者, イタリアのカミロ・ゴルジとスペインのラモニ・カハールであった. ゴルジは神経細胞を突起の隅々まで染色する画期的な方法を発明し, それまで別々のものとしてしか染まらなかった細胞体と神経線維とを, 一続きの構造としてとらえることに初めて成功した. 一方カハールは, ゴルジの方法に依拠して脳のあらゆる場所から標本を作り, その詳細な顕微鏡観察を通して, 神経細胞が作るネットワークの正しい姿を次々に明らかにしていった. 同時代に成し遂げられた二人の形態学者の仕事によって, 人類の脳に対する理解は格段に深化したと言うことができる. ところがゴルジとカハールは, 神経細胞のネットワークの様式について全く異なる立場をとっていた. 受賞講演においても, 二人はお互い譲ることなく, 相いれない二つの説をそれぞれ披露して講演を終えたのである. 当日の講演の全文は, 現在ウェブサイト上で閲覧することができる. それによればゴルジは, 彼の講演のほとんどを, 既に時代遅れとなりつつあった網状説の頑強な擁護と, カハールらが唱えるニューロン説への攻撃に宛てた. ゴルジらの提唱する網状説においては, 神経細胞から伸びる軸索が互いに直接連絡し合いながら複雑な網目を形成し, 信号はそのネットワーク内を様々な方向に伝播すると考えられていた. それに対してカハールは, 細胞体・樹状突起・軸索からなる神経細胞が, 脳を形作る単位構造(ニューロン)として存在していること, 信号は樹状突起・細胞体から軸索へと一方向に流れて軸索終末に達すること, そして軸索終末と信号の受け手である細胞体・樹状突起との間にはすきまがあり, 信号は何らかの方法でそのすき間を越えて次のニューロンに伝達されるであろうことを唱えた. すなわちカハールは, 現在われわれが知っている神経細胞のあり方を, 驚くほどの正確さを持って見通していたわけである. 実は現在の最高水準の光学顕微鏡の解像力(約0.2ミクロン)をもってしても, そのすき間(約0.02ミクロン)を見ることは不可能である. しかし彼は脳のあらゆる場所から美しい標本を作製し, おびただしい数の神経細胞を観察し, また発生の過程で脳の中を伸びていく軸索の形態を詳細に検討した結果から, ニューロン説を確信する啓示を得たのであった. カハールの考えたニューロン説が正しかったことは, 約50年後の1950年代に, 電子顕微鏡がシナプスの微細構造を明瞭に描き出したことにより, ようやく最終的な決着をみた. 以後今日に至るまで, あらゆる神経科学は, 単位構造であるニューロンが, シナプスによる間接的な結合を仲立ちとしてネットワークを形成しているというセントラルドグマを基盤として発展してきたといっても過言ではない. このことは, たとえば神経生理学はシナプスにおける電気的応答を調べ, 神経薬理学はシナプスにある受容体を主な標的とし, また精神医学は, シナプス伝達の異常の是正を薬物治療の核心としてきたことからも, 容易に理解できるであろう. しかしいつも単純なコースをたどるわけではないというのが, われわれの科学のあゆみの, むしろ一般的な姿である. 電子顕微鏡によるシナプス構造の同定からさらに50年の時を経た今日, 現代の形態学と生理学は, ゴルジが完全に間違っていたわけではなく, 網状説が部分的には正しいかもしれないことを, しだいに明らかにしつつある. 大脳皮質にはもうひとつのネットワークがあり, それは驚くほどの密度と広がりをもって, 既知のニューロンネットワークと空間を共有している可能性を示しっっある. 本稿においては, われわれの最近の成果も含めながら, この新しいネットワーク構造についての概説を試みたい. (なお文中で大脳皮質という言葉を用いる際には, 新皮質と海馬を主な対象としている.)