著者
井上 薫
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
no.3, pp.15-26, 1984-03

戒・定・慧の関係を仏典の経へ仏の説法を収録した書)律(仏が制定した修行規則を集めた書)論へ仏弟子や高僧が経典の内容を研究・解釈したところを記した書)の関係にあてはめると、定は経にあたり、戒は律に、慧は論に相当する。欽明天皇七年へ五三八)に仏教が百済から公的に伝わると、戒律も学ばれ、百済は律師を日本にたてまつりへ敏達天皇元年、五七二)、善信尼らは百済に行き戒律を修めへ用明天皇二年、五八七)、道光は唐から『四分律』を舶載しへ天武天皇六年、六七八)、『依四分律鋤撰録文」を著し、道融は唐の道宣の『四分律行事抄』を講義した。『四分律』は小乗戒へ自分だけ悟ればよいとする修行の方式で、大乗戒〔自分が悟るだけでなく、他人も悟らせることを理想とする修行方式〕に対する語)を内容とする四大戒律書へ『十調律』『四分律』『僧祇律』『五分律』)の一つで、後秦へ三八四~四一七)の仏陀耶舎・竺仏念らによって漢訳され、四〇巻本や六〇巻本などがある。大宝「僧尼令」の原典の一つに『四分律』が用いられていることが指摘されている。このように戒律は修得されていたが、戒律制度が不備で、三師へ授戒する戒和上・掲磨師・教授師各一人。掲磨は授戒や峨悔などの戒律に関する作法)、七証へ受戒を証明する僧七人)をそろえなければならないし、授戒の儀礼や結界登壇を行なう施設などを整えなければならなかった。天平五年(七三三)の遣唐使へ大使多治比広成、副使中臣名代)に従って入唐留学した栄叡・普照へともに興幅寺僧)・理鏡らは研究と戒師招請の任務を負ことになった。戒師招請は元興寺の隆尊が発案し、知太政官事の舎人親王に献策したことによると『東大寺要録』にみえるへ知太政官事は百官を統轄する官職。大宝令における太政大臣の任務規定が抽象的であったため設けられたという)。

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