著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.7-32, 2003-03

本稿では、フェニキア語の「アヒラム碑文(KAI1・2)と「アジタワッダ碑文」(KAIA26通称「カラテペ碑文」)を検討する。前者は、フェニキア世界の中核たるレバノンのゲブラ(ビブロス)、後者は外縁たるトルコのカラテペで出土した。手順は、先ずワープロによるフェニキア文字文で打ち出し、各単語に目安程度の英単語を付記しながら、簡単な解説を加える。全体の訳文は示さないがGibson(1982)・谷川(2001)を参照のこと。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-20, 1997-03

本稿は、パルミラ語碑文研究に着手する予備作業として、先ずパルミラ遺跡・パルミラ語・アラム語群・セム語一般等に関する手短かな文献を概観し、次に碑文文字編年の作業方針を提示することに目的がある。
著者
松本 彩
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
vol.6, pp.19-36, 1988-03

仏像光背は、仏身より発する光明を具体的に表現したものであり、仏像彫刻の一部として意味深い存在でもある。インドで聖者を示す光背が釈迦牟尼像にとりつけられて以来、インド、西域、中国、朝鮮と時代や地域を経て展開し、わが国には飛鳥時代に伝来する。そして、断続的な大陸との交流によってその様式を受容しつつも、わが国独自の発展を遂げてきた。このようなわが国光背の歴史のなかで、和様の大作といわれる藤原時代の平等院鳳鳳堂本尊・阿弥陀如来坐像の飛天光背は、日本仏像光背の一様式を築いた代表的遺品である。しかし、ほぼ同じこの時期、この光背の完成形ともいうべき平等院鳳鳳堂本尊光背の対局には、奈良地方を中心として製作された板光背と呼ばれる形式があり、これもまたわが国光背の研究の上では欠かすことのできない遺品群として注目される。そしてこの二つの光背様式は、以後の光背の形式に大きな影響を与えることとなる。本論ではこの二つの光背に着目し、その源流や成立、背景となる仏教史をもふまえながら、その展開について考察していきたいと思う。
著者
白石 太一郎
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-4, 2009-03

最初から予想していたことであるが、本当にあっという間の短い5年間であった。6年前の平成15年の早春のことと記憶するが、東京国立博物館で開かれた東大寺山古墳出土の中平銘大刀の修理・摸造のための調査検討会のあと、東野治之先生から歴博(国立歴史民俗博物館)退職後、奈良大学の文化財学科へ来ないかとのお誘いを受けた。翌平成16年の3月で、設立準備室以来26年間勤めた歴博を退職することが決まっていたが、私自身も、また家内も歴博のある城下町の佐倉が大いに気にいっており、退職後も二人でこの地に永住する覚悟を決めていた。他からのお話ならすぐお断りしただろうが、奈良大となると話は別で、真剣に考えさせていただく旨お答えした。奈良、すなわち大和は河内とともに私の専門的なブイールドの地であり、特に奈良は高校生時代以来、奈良県立橿原考古学研究所時代の10年間を含めて、歩き回った懐かしいところである。さらに奈良大の文化財学科は、優れた考古学専攻の卒業生を数多く全国各地に送り出しており、その教育研究には大いに敬服していた。また私にとっても、家内にとっても関西は故郷でもある。その後家内とも相談し、また大阪で水野正好先生ともお会いして奈良大の現状についていろいろお話を伺ったが、佐倉永住の覚悟を翻すのにそれほど時間はかからなかった。

2 0 0 0 IR 大仏師定覚

著者
三宅 久雄
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.9-19, 2009-03

建仁三年(一二〇三)造立の東大寺南大門仁王像は、昭和六十三年から平成五年にかけて解体修理が行われ、その際、発見された銘記や納入経の奥書から注目すべきいくつかの事柄が判明した。そのうちのひとつに、大仏師として従来知られていた運慶、快慶のほかに、推測はされていたが、湛慶と定覚が起用されたことが確かめられたことがある。加えて大方の予想を裏切り、阿形像は運慶と快慶、畔形像は定覚と湛慶が分担したことも明らかになり、新たな問題をなげかけた。当時、運慶の長男湛慶は三十歳、この慶派の後継ぎと組んで畔形像の造像に当たったのが定覚である。周知のとおり、定覚という仏師は大仏殿両脇侍像、四天王像復興において康慶、運慶、快慶とともに活躍した慶派の四人の大仏師のうちの一人である。慶派の中では重要な位置を占めているように思えるが、彼の現存作例は南大門仁王像のみであり、しかもこの仁王像からは定覚個人の作風を知ることは、まずできない。出自もはっきりとせず、知名度の高いわりには謎に包まれた仏師である。ここで南大門仁王像の銘文を契機として、この定覚についてあらためて考えてみたい。
著者
岡田 英男
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-16, 1991-03

建築遺跡や集落の発掘調査の成果をより一層具体的に表現するために、建造物の復原的考察が行われ、併せて実物大に再現されたり、模型が製作される場合が少なくない。昭和23〜25年度に発掘調査が行われた登呂遺跡では住居と高床倉庫が復原されている。この復原に当たり、倉庫では登呂遺跡で発見された建築部材と、静岡県山木遺跡から発見された多量の高床式建物の部材が併せて検討された。住居については江戸時代天明4年(一七八四)完成の製鉄技術書『鉄山秘書』に記された製鉄小屋「たたら」の記録が重要な根披となったことは広く知られている。高床式建物では三重県ら納所遺跡、福岡県湯納遺跡、愛媛県古照遺跡などのように建築部材が発見されたことが少なくない。これらの古材が最も重要な復原資料であることは言うまでもない。その他、銅鐸、土器に刻まれた建物の絵、家型土器や家型埴輪、家屋文鏡、太刀の環頭など建築の姿を表現する遺物が少なくない。また『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などに見える建築関係用語の研究も行なわれ、伊勢神宮・出雲大社・住吉大社のような伝統的な神社建築の構造形式も原史時代の建築を考えるうえに重要な資料となっている。
著者
井上 薫
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
no.3, pp.15-26, 1984-03

戒・定・慧の関係を仏典の経へ仏の説法を収録した書)律(仏が制定した修行規則を集めた書)論へ仏弟子や高僧が経典の内容を研究・解釈したところを記した書)の関係にあてはめると、定は経にあたり、戒は律に、慧は論に相当する。欽明天皇七年へ五三八)に仏教が百済から公的に伝わると、戒律も学ばれ、百済は律師を日本にたてまつりへ敏達天皇元年、五七二)、善信尼らは百済に行き戒律を修めへ用明天皇二年、五八七)、道光は唐から『四分律』を舶載しへ天武天皇六年、六七八)、『依四分律鋤撰録文」を著し、道融は唐の道宣の『四分律行事抄』を講義した。『四分律』は小乗戒へ自分だけ悟ればよいとする修行の方式で、大乗戒〔自分が悟るだけでなく、他人も悟らせることを理想とする修行方式〕に対する語)を内容とする四大戒律書へ『十調律』『四分律』『僧祇律』『五分律』)の一つで、後秦へ三八四~四一七)の仏陀耶舎・竺仏念らによって漢訳され、四〇巻本や六〇巻本などがある。大宝「僧尼令」の原典の一つに『四分律』が用いられていることが指摘されている。このように戒律は修得されていたが、戒律制度が不備で、三師へ授戒する戒和上・掲磨師・教授師各一人。掲磨は授戒や峨悔などの戒律に関する作法)、七証へ受戒を証明する僧七人)をそろえなければならないし、授戒の儀礼や結界登壇を行なう施設などを整えなければならなかった。天平五年(七三三)の遣唐使へ大使多治比広成、副使中臣名代)に従って入唐留学した栄叡・普照へともに興幅寺僧)・理鏡らは研究と戒師招請の任務を負ことになった。戒師招請は元興寺の隆尊が発案し、知太政官事の舎人親王に献策したことによると『東大寺要録』にみえるへ知太政官事は百官を統轄する官職。大宝令における太政大臣の任務規定が抽象的であったため設けられたという)。
著者
光森 正士
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-54, 1998-03

初期仏教々団、つまり僧伽は釈尊を中心として比丘、比丘尼らで構成されていた。しかし、後には在家の人びと優婆塞、優婆夷なども仏教に帰依するものが多くなって次第に大きく発展した。初期教団にては比丘や比丘尼たちは一定の土地に留まり、固定的に生活するというのではなく、常に各地を転々とする移動集団であり、絶えず移住する生活の連続であった。このことはある地域に対する執着を離れることにもなり、また、地域に密着する私的感情を断ち切ることであり、愛着をつのらせることも避けた。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-26, 2004-03

プズリシュダガンのシュメール語粘土板(ドレヘム)文書は、ウル第三王朝の解明に重要な史料である。例えば、懊形文字史料による古代メソポタミア研究を総括した『歴史学の現代古代オリエント』(前田他2000)は、「プズリシュダガンはニップル近郊にあって、周辺諸国やシュメール・アッカド地方の諸都市から貢納として運ばれてきた家畜を管理するウル王家直轄地であった。そうした特色から、ウル第三王朝が国内と周辺地域に対してどのような支配体制で臨んだかを研究するのに好都合な文書」と評価する。本稿では、先学の研究を紹介しつつ、ウル第三王朝・ドレヘム文書・集配組織の学習に努める。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
no.14, pp.41-51, 1996-03

出産のあと、湯殿始めの儀が執り行なわれる。産湯の儀である。この産湯の水は、単なる産児を洗う湯という以上に強い宗教性が与えられている。例えば、後白河院の誕生を記す『九民記』には「次主税属佐伯貞仲率仕丁、令汲吉方水」とあるように、産湯水には、誕生した産児の吉方を勘案して陰陽師が方角(吉方)を定め、その方角にある河川などから「吉方水」を汲みとり、宮室・家宅に持ち蹄るのである。

1 0 0 0 IR 産育呪儀三題

著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
no.13, pp.71-80, 1995-03

最近では、奈良時代、平安時代の胞衣壷の発掘例が激増し、この時代、胞衣壷を丁寧に地に埋ある慣行が、各地に広く拡がっている状況が読みとれるようになった。また、一方、中世末から近世、都市として股賑を極めた堺や伊丹でも、同様の慣行の存続を物語る胞衣壷の発掘例が相ついでおり、長期の脈々たる慣行の伝承が予測されるようになった。こうした考古学の成果を検討すると、平安時代後期以降、中世前半の胞衣壷の発見例が極めて乏しいことに気づくのである。奈良朝の胞衣壷を地中に埋める慣行は『崔行功』小児方に「凡胞衣、宜蔵干天徳月徳吉方、深埋繋築、令見長寿」等と記す中国での埋納法をうけての慣行とみてよいであろう。中国の産経、産書を承けての慣行受容なのである。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-17, 1986-03

本稿では、災ひを嬢ひ福を招く、そうしたまじなひ世界を中心に、中世を生きた人々と鬼神をめぐる想ひ、祈りを垣間見たいと思います。まじなひ世界の研究は殆んどなされて居りませんから、ここに、私の意のあるところを記しましてご批判、ご教示を得たいと思います。
著者
植野 浩三
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.13-32, 2004-03

五世紀代の古墳時代文化の発展は、五世紀前半代に新たにもたらされた渡来文化の影響がきわめて重要な役割を果たしたことは、すでに説かれているところである。それは、各種技術に留まらず、墓制や諸制度、生活様式の一部においても認められ、渡来人の直接的な関与や影響、そして間接的な影響によって展開したもの等、多方面にわたる。このうち手工業生産においては、須恵器生産と鉄生産を中心とする金属器生産が考古学の分野では明らかになってきており、後で触れるように土木技術や、その他の生業・技術の面においてもその存在が確認されつつある。須恵器生産の開始が渡来人と密接な関係にあったことは、すでに文献史料の側からも推測されている。その代表的なものは、『雄略紀』七年条にある「今来才伎」渡来記事であり、「新漢陶部高貴」の記載から須恵器生産に陶部高貴が関わったことが予測され、古くはこの頃に生産が開始したであろうという年代論も指摘されてきた。また、年代的な信懸性をもつが、『垂仁紀』三年条の天日槍渡来伝説の中にある「近江国鏡村谷陶人、即天日槍之従人也」の記事は、須恵器生産に渡来人が関わりをもったことを伝えた内容として高く評価されてきた。こうした経緯からも、須恵器生産が渡来人によってもたらされたことは暗黙の了解事項として認識されてきた。須恵器生産の技術は日本で定着して以降、各地で展開していき、六世紀代以降は全国的展開している。初期においては、渡来時の窯跡や須恵器が次第にあるいは急激に変化して日本化が進み、定型化を迎えて行く方向性が示されている。しかしこうした須恵器の変遷が示される一方で、実際に生産に携わった渡来人の様相やその推移については、さほど明らかにされていないのが現状である。須恵器生産自身は渡来人の主導の元に成立して継続するが、それに従事した渡来人の集落の様相や渡来的要素の整理・比較といった総合的な把握は途に着いた状況である。そして、渡来的要素の動向と生産組織の相関関係についても未解明の部分が多いといえる。したがって本稿は、近年の調査資料を参考にしつつ、窯跡と須恵器、そして集落遺跡について渡来的要素のあり方を再整理してその推移を探り、生産に携わった渡来人の動向やその要因について検討する。加えて、渡来人の動向と生産の展開、生産組織の変化について関連させて考察していきたい。尚、本稿では、大阪・陶邑窯と周辺の地域について中心的に取り扱い、他地域については適時触れることとし、渡来人の動向が詳細につかめる5世紀代を主にとりあげていくことにする。
著者
塩出 貴美子
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.21-44, 2009-03

本稿で紹介する富美文庫蔵「ふしみときは」は、上下二冊からなる絵入りの写本である(以下、富美文庫本と称する)。内容は、平治の乱の後、源義朝の愛妾常盤御前が今若、乙若、牛若の三兄弟を連れて都落ちする途次、伏見の老夫婦のもとに逗留するというもので、これは舞の本のうちの一つである。舞の本というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて流行した幸若舞の語り台本を読み物用に転用したもののことである。慶長年間には古活字版が、また寛永年間には製版本が刊行されており、その後も版行が繰り返されていることから、かなり広く普及したものと思われる。また、舞の本は絵巻や「奈良絵本」と通称される絵入本の題材にもなっており、多数の作例が伝存する。「ふしみときは」についても既に十数件の存在が確認されているが、富美文庫本はその新たな一例となるものである。本稿では、この富美文庫本の概要を紹介し、本文を翻刻するとともに、その特質について若干の考察を加えることにしたい。なお、富美文庫が所蔵する絵入本及び絵巻については、別に報告書を作成するので、そちらも併せて参照されたい。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報
巻号頁・発行日
vol.2, pp.23-43, 1983-03

人の心根の揺れ動くところ、必ずや人に近ずき人の親しむものの世界を生み、また必ずや人から遠ざかり人と疎縁となるものの世界を生み出す。今日の私どもがいだく心根なり、想ひとは、また全く異った心根なり想ひでつつまれた一つのものの世界が時にはたどれるのである。馬・馬・馬と題した小稿は、古代における人々の馬を視る目の動き、心の動きをいくつかの資料に語らせようとするものである。
著者
奥野 義雄
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.43-58, 1994-03

中世公家・武家の孟蘭盆習俗は、端的に祖先祭祀を表現するものである。すでに、公家・武家の孟蘭盆習俗にみる燈籠進供について触れたが、そこでは、中世孟蘭盆の習俗とは、古代の孟蘭盆習俗とは違って新しい習俗が付加されたものであることを大雑把に提示したのみであり、もう少し詳しく中世公家・武家の社会における孟蘭盆習俗を検討し、どの時期にどのような習俗が付け加えられてきたかを究明することによって、中世以降の孟蘭盆習俗とどのようにかかわっていくのかを考えていく手掛りを捉えることができるのではないかと想定し得るからである。また、中世の孟蘭盆習俗を軸に古代の孟蘭盆習俗と対比することによって、中世の孟蘭盆習俗の存在形態が明確にし得るのではないかと考えたからにほかならない。この視点で中世公家・武家の孟蘭盆習俗について、小稿で検討することにしたい。