- 著者
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三宅 久雄
- 出版者
- 奈良大学文学部文化財学科
- 雑誌
- 文化財学報 (ISSN:09191518)
- 巻号頁・発行日
- vol.27, pp.9-19, 2009-03
建仁三年(一二〇三)造立の東大寺南大門仁王像は、昭和六十三年から平成五年にかけて解体修理が行われ、その際、発見された銘記や納入経の奥書から注目すべきいくつかの事柄が判明した。そのうちのひとつに、大仏師として従来知られていた運慶、快慶のほかに、推測はされていたが、湛慶と定覚が起用されたことが確かめられたことがある。加えて大方の予想を裏切り、阿形像は運慶と快慶、畔形像は定覚と湛慶が分担したことも明らかになり、新たな問題をなげかけた。当時、運慶の長男湛慶は三十歳、この慶派の後継ぎと組んで畔形像の造像に当たったのが定覚である。周知のとおり、定覚という仏師は大仏殿両脇侍像、四天王像復興において康慶、運慶、快慶とともに活躍した慶派の四人の大仏師のうちの一人である。慶派の中では重要な位置を占めているように思えるが、彼の現存作例は南大門仁王像のみであり、しかもこの仁王像からは定覚個人の作風を知ることは、まずできない。出自もはっきりとせず、知名度の高いわりには謎に包まれた仏師である。ここで南大門仁王像の銘文を契機として、この定覚についてあらためて考えてみたい。