著者
小林 幹男
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-30, 1999-12-21

五街道宿駅の役割は、公用通行者に人馬を提供し、継ぎ立てを行うこと、および幕府などの公用通行者や参勤交代の諸大名、公家・公卿などの貴人らに休息・宿泊の施設を提供することであった。江戸時代の宿駅の負担は、幕末期に向かって年々増加するが、助郷村の負担もこれに伴って必然的に増加し、宿駅と助郷村との紛争も各地で頻発した。幕末期に街道通行が増加した原因は、幕府などの公用旅行者の増加と経済の発達に伴う商品流通の拡大であったと考えられる。文久元年(1861)の皇女和宮下向の大行列と文久2年の幕政改革に伴う翌3年の通行量の増加は、幕末期の宿駅と助郷村の負担の増加の中でも特筆に値する。「和宮様の御通行」といわれる大行列は、京方1万人、江戸方1万5千人といわれ、文久元年10月20日辰刻に京の桂宮邸を出発し、11月14日に板橋宿に到着して、翌15日に無事江戸に入った。和宮下向の大行列の特色は、きわめて短期間に8万人もの人馬・調度が街道を通行し、宿駅と助郷村に大きな負担を課したことである。また、文久3年の人馬の通行は、長久保宿の場合、文久元年の人足総数が22,693人、馬8,412疋であったのに対して、文久3年の通行は、大名家の妻子などが国許に帰るものが多く、人足総数47,507人、馬9,439疋を数え、春から秋にわたって街道を通っている。和宮下向の人馬・調度の継ぎ立てのために、中山道八幡宿に動員された助郷村は、定助郷佐久郡28か村、当分助郷小県郡14か村、更級郡14か村、埴科郡8か村、新規当分助郷佐久郡4か村、小県郡6か村、遠国新規当分助郷甲州八代郡72か村、越後国蒲原郡64か村と記され、合計120か村(清水岩夫1998 史料16)の村々に助郷が割当てられている。このとき八幡宿と塩名田宿は、岩村田宿・小田井宿と合宿(組合)になって和宮の大行列を次の宿泊地である沓掛宿まで継ぎ通しを命ぜられた。また、下水内郡栄村の市川家に伝わる文書(現在県立歴史館に寄託)によれば、北信濃の高井19か村が岩村田・小田井両宿に助郷を命ぜられている。この奥信濃ともいわれる村々から追分宿へは、飯山・迫分間がおよそ100キロである。この距離に飯山から奥信濃の各村々への道程を加えれば、少なくとも片道2泊3日以上の行程になるであろう。また、「野沢温泉村史」によれば高井郡37か村が、追分・沓掛・軽井沢の浅間3宿に助郷を命ぜられたと記されている。この北信濃関係の調査は、まだ不十分であるが、その実態を探ることは、和宮下向と北信濃の農村の助郷問題を考え上で重要である。本稿では和宮の下向と北信濃の高井郡各村の助郷問題と共に、近世における奥信濃の街道交通の問題も合せて推考し、遠隔地の助郷に関連する助郷村と農民の負担の問題も考察することにした。

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