著者
上原 武則
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.5, pp.10-15, 1998-01-30

On Oct. 29, 1997, a specimen of salmonid hybrid supposed to be natural occurrence was caught by rod from the downstream of Inekoki-Dam, Azusagawa R., by Takayuki Hirai (a member of investigater with the Sôgô Kankyô Laboratory). The captor was immediately suspected that the present specimen was resembled to Tigertrout. Such a strange hybrid fish, however, isn't able to be classified into the wellknown salmonid species easily. Therefore, he forwarded it to the author for further examination and identification several days after its capture. The specimen, 13.2cm in total length and 26.4g in weight, is immature male having a pair of small testes (left piece is 16mm long, right one is 10), and has dark brown wormeaten spots on the dorsal and lateral surface, but not on the dorsal fin and adipose fin. These colouration and arrangement of spots are differ from those of Tiger-trout, especially Japanese char (iwana) and land-locked cherry-trout (yamame). However, morphological features including the distribution of vomerine teeth, counts of gill rakers, vertebrae and others are intermediate between those of iwana and yamame. On this papers, the author attempted to ascertain the strain of this hybrid fish and discuss about the presumable occurrence in the wild.
著者
清水 祥子
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-38, 1999-12-21

江戸時代の料理本にみるおから料理は実に豊かである。前菜から食後(甘味)に至る様々な料理がみられる。その料理名がまた素敵である。むろん少ないお米におからを混ぜてかさを増やすいわゆる「かて飯」として庶民の貧しい食事の様もみえるが、華やかに食卓を飾った料理もあった。時代とはいえおからも庶民の命を養う食材の一つであったこと、従っておから料理の実に豊かだったことがうかがえる。
著者
小出 卓二
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-7, 1996-03-01
著者
小林 幹男
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.57-76, 2000-12-20

蘇我氏の系譜は、『古事記』の孝元天皇、あるいはその孫にあたる武内宿禰を祖とする説、『上宮聖徳法王帝説』などの石河宿禰を祖とする説、あるいは満智を祖とし、満智が百済の木満致と同一人物であるとする説などがある。その本居地についても、大和国高市郡の蘇我の地、大和国葛城地方、河内国石川地方とする説がある。『日本書紀』の記事によると、百済・新羅・高句麗からの氏族の渡来、および仏教をはじめとする多く文化や技術を受容したのは、応神天皇から推古天皇の時代に目立って多い。この時期は、中国や朝鮮半島の諸国が、互いに抗争を繰り返した激動の時代であり、わが国も中国や半島諸国と通交して、積極的な外交政策を展開した時期である。その前段の時代、すなわち応神天皇から雄略天皇の時代は、中国の史書『宋書』などに記されている「倭の五王」の時代と対応する年代であり、欽明天皇から推古天皇の時代は、蘇我氏が渡来系氏族を配下において、大陸文化の受容と普及に努め、開明的な屯倉経営を推進して農民の名籍編成などを行い、積極的に農業生産力の増強を図って中央政界をリードした時期である。蘇我馬子が建立した飛鳥寺は、高句麗方式の伽藍配置を採用し、北魏様式の飛鳥大仏を造り、百済から渡来した僧侶や技術指導者たちを動員して完成した。蘇我氏の開明的性格を如実に物語る歴史的事実である。4~7世紀のわが国古代の文化は、「倭の五王」などの渉外関係史、蘇我氏と渡来系氏族の研究を基礎にしてこそ、その歴史の真実に迫ることができるものと考える。
著者
小林 幹男
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.15-29, 1998-12-21

中山道は、東海道に次ぐ主要な街道であり、板橋・草津宿間67次であるが、一般的には東海道と重なる草津宿と大津宿を加えて「中山道69次」といわれている。中山道の宿駅は、社会の安定と経済の発達に伴って、物質の輸送や人馬の継ぎ立てが増加し、参勤交代の大名、一般旅行者の通行によって賑い、江戸後期になるとさらに輸送量と通行者が増加して繁栄した。しかし、宿駅や助郷村は、一方で無賃、または低賃銭の伝馬役などを強制され、その不足分を補填しなければならなかったため、財政が窮乏し、幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ。孝明天皇の妹和宮が、公武合体の政治的意図によって、将軍徳川家茂に嫁ぐため東下した文久元年(1861)のいわゆる「和宮様の御通行」は、空前の大行列であった。この大行列の人数は、京方1万人、江戸方は京都所司代をはじめ、お迎えの人数を合せて1万5千人、合計2万5千人といわれ、御興の警護12藩、沿道の警護29藩、総勢およそ8万人と伝えられている。この大行列通行のために動員された人馬は「御小休」の長窪宿の場合、定助郷12か村、当分助郷29か村、人馬6,350人、645疋と記録されている。このことからも「御泊」の和田・八幡・沓掛宿、「御昼」の芦田・小田井・軽井沢宿などの負担を窺うことができる。
著者
小林 幹男
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.57-76, 2000-12-20

蘇我氏の系譜は、『古事記』の孝元天皇、あるいはその孫にあたる武内宿禰を祖とする説、『上宮聖徳法王帝説』などの石河宿禰を祖とする説、あるいは満智を祖とし、満智が百済の木満致と同一人物であるとする説などがある。その本居地についても、大和国高市郡の蘇我の地、大和国葛城地方、河内国石川地方とする説がある。『日本書紀』の記事によると、百済・新羅・高句麗からの氏族の渡来、および仏教をはじめとする多く文化や技術を受容したのは、応神天皇から推古天皇の時代に目立って多い。この時期は、中国や朝鮮半島の諸国が、互いに抗争を繰り返した激動の時代であり、わが国も中国や半島諸国と通交して、積極的な外交政策を展開した時期である。その前段の時代、すなわち応神天皇から雄略天皇の時代は、中国の史書『宋書』などに記されている「倭の五王」の時代と対応する年代であり、欽明天皇から推古天皇の時代は、蘇我氏が渡来系氏族を配下において、大陸文化の受容と普及に努め、開明的な屯倉経営を推進して農民の名籍編成などを行い、積極的に農業生産力の増強を図って中央政界をリードした時期である。蘇我馬子が建立した飛鳥寺は、高句麗方式の伽藍配置を採用し、北魏様式の飛鳥大仏を造り、百済から渡来した僧侶や技術指導者たちを動員して完成した。蘇我氏の開明的性格を如実に物語る歴史的事実である。4~7世紀のわが国古代の文化は、「倭の五王」などの渉外関係史、蘇我氏と渡来系氏族の研究を基礎にしてこそ、その歴史の真実に迫ることができるものと考える。
著者
栗田 秀實 植田 洋匡
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要 (ISSN:18801870)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-19, 2005

中部山岳地域における酸性雨の陸水への影響を検討するため、人為的な汚染の影響が小さい上流域の河川、湖沼の24地点(15河川20地点、4湖沼4地点)について、1972~2001年度の30年間の公共用水域における水質モニタリングデータを用いて、pHの経年変化を解析し、降水のpHとの関係について検討した。降下ばいじん調査データおよび酸性雨調査データによると、1972~2001年度の30年間における長野県下の降水のpHは5.0前後で、ほぼ横ばいであったと推定された。降水のpHの年平均値は、アジア大陸や東京湾沿岸地域からの酸性物質の輸送の影響を受けやすい長野県北部および東部で低く、一方、これらの影響を受けにくい長野県中部、南部で高い傾向を示した。河川・湖沼のpHは、解析を行った24地点のうち12地点で有意な経年的な低下を示した(危険率5%)。酸性岩を集水域の基盤とする中綱湖、青木湖、木崎湖、高瀬川、姫川、梓川において、前報(栗田ら,1990,1993)同様、PHは有意な低下傾向を示し、過去30年間のpHの低下量は0.2~1.1と推定された。また、前報で報告した河川以外の、夜間瀬川、中津川、神川、釜無用においてもpHの有意な低下がみられ、過去30年間のpHの低下量は0.3~0.7と推定された。pHの経年的な低下が見られた河川のなかには、アルカリ度(HCO_3^-濃度)の低い河川があり酸性雨の影響が示唆された。pHが有意な経年的な低下を示した12地点のうちで、2001年度のpH(回帰式による推定値)が最も低いのは夜間瀬川の6.5、これについで低いのは、中綱湖、中津川、青木湖、高瀬川の6.7~6.8であった。温泉水の流入によりHCO_3^-濃度が低く、酸性雨の中和能が小さい夜間瀬川の場合には、融雪初期に顕著なpHの低下がみられた。これらのことから、中部山岳地域上流域の、酸性雨に対する緩衝能の小さい河川・湖沼の一部において、pHが経年的に低下しつつあり、pHが有意な低下を示す地域は、酸性岩を基盤とする地域以外にも次第に拡大していることが示唆された。
著者
山岸 恵美子
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.8, pp.27-55, 2000-12-20

終戦直後における食教育としての調理実習は、食材料である食品が著しく不足していたために、全国的に非常に困窮していた。その一端を旧制、長野県女子専門学校(県立、3年制)の調理実習ノートで検討すると、つぎの通りである。1)乏しい材料下でも調理の基本から応用、ハレの日の料理、テーブルマナーなどの専門教育が実施されている。2)料理に使った食品の残り物や廃棄物の再利用、調理過程における熱源の節約指導が徹底している。3)1・2年次とも地場生産物である豆類・種実類・野菜類の使用量は多いが、動物性たんぱく質源である魚介類・獣鳥肉類・卵類・乳類などは使用量が非常に少なく、入手困難であったことが認められる。4)米に代わるエネルギー源として、じゃがいも・さつまいも・かぼちゃなどが出現頻度高く、使用量も多い。いも麺・三色いも餅・かぼちゃの寄せ物などの料理がある。5)1年次には放出物資(ガリオア資金によるアメリカからの食料援助物資)である脱脂大豆粉やとうもろこし粉を使用した料理が目立つ。例えば、脱脂大豆粉を材料とした、とうふ・ちくわ・おやき、とうもろこし団子のおはぎなどがある。6)紅茶、コーヒーなどの飲み物は、小麦粉・大麦粉・脱脂大豆粉・黒豆粉を妙って代用している。7)さとうの使用量は1年次では非常に少ないが、2年次になると他の調味料の出回りと共に使用してきている。人工甘味料であるズルチン・サッカリンも料理に取り入れている。8)マヨネーズは塩と酢に小麦粉やじゃがいものうらごし、脱脂大豆粉などを混ぜたもので代用している。9)1食当たりの米の使用量は150gで、現在の女子学生の使用量よりも多い。また、みそ汁の濃度も、水180mlにみそ20~30gで塩分濃度は高く、当時の食生活状況が推測される。10)代表的な料理を6種類選んで作成再現し、デジタルカメラで撮影して画像で示すとともにその料理の栄養摂取状況等を検討した。その結果、脱脂大豆粉・とうもろこし粉・いも類・かぼちゃ・その他の野菜類の大量摂取によって、たんぱく質・ビタミン類・ミネラル・食物繊維などはかなり多く摂取できていることが認められた。また、脂質の摂取量が少なく、アミノ酸スコアやPFCエネルギー比率が良好な料理もあり、現在の食事改善の参考になる。
著者
上原 武則
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.8-19, 1996-12-10

The intergeneric hybrids which have been produced by the artificial breeding between Salmo trutta and Salvelinus fontinalis are usualy called "Tiger trout" or "Zebra" in Europe and America, because the colour markings on their body surface resemble the stripes of these animals. These hybrids produce rarely under natural conditions in the river, where the both species intermingle. (James.H.Allan, 1977) In Japan, however, this natural hybridization has scarcely been reported in the past. On 24 September 1978, a single specimen presumed to be one of "Tiger trout" hybrids was caught from the upper streams of Taishoike Dam, where Salmo trutta and Salvelinus fontinalis suspected its parental species were crowding together. Since 1975, about 300 specimens of Salmonid fishes have been caught and examined during our studies of the Taishoike areas. Of all these specimens collected during these 20 years, 102 were Salvelinus fontinalis and 47 were Salmo trutta. However, only one specimen presumed "Tiger trout" hybrid was caught. Therefore, this hybrid constitutes about 0.7 per cent of the total population of parental species: Salmo trutta and Salvelinus fontinalis. The author attempted to ascertain whether or not such a specimen is really a hybrid from these two species, and to analize the factors for natural hybridization in Taishoike Dan. The present specimen was male of 3+ years age, 166mm in body length (195mm in total length), 38mm in body breadth, 52.5g in weight, and its milt weighed only 0.4g in the early spawning season. It had golden brown colour with broad, dark brown vermiculations on the lateral surface, dark brown spots on the dorsal and adipose fins. It doesn't seem to look like either of its parental species. Some measurements of the numerical characters of this hybrid are as follows: 110 scales on lateral line, 15 gill rakers on 1st arch and 57 vertebrae. These measurements showed that this hybrid specimen is between Salmo trutta and Salvelinus fontinalis. The characteristics of the present hybrid are similar to those shown in the photograph and the description about the "Tiger trout" (Salmo trutta ♀×Salvelinus fontinalis♂) by Suzuki; Fukuda (1973), except a little difference. From these facts, it is evident that this natural hybridization occured from the intercrossing of Salmo trutta♀ and Salvelinus fontinalis ♂. Since 1925, the eggs and fry of Salmo trutta and Salvelinus fontinalis have been imported into the Taishoike areas from North America and Inawashiroko Lake and others. Especially, the local fishermen continued to stock this water area with Salvelinus fontinalis untill 1971. Since then, both species have increased in number. Although the opportunity for natural hybridization may be fairly frequent, the hybrid produced by such intergeneric crossing as Salmo trutta × Salvelinus fontinalis is rarely to be found in the natural environment due to low fertility of parental species, and low survival rate of F_1-hybrifds. Moreover, these F_1-hybrids "Tiger trout" produce neither fertile eggs and milt, and so they are all sterile. (Suzuki;Fukuda, 1971・1973) Because of these facts, this hybridization may exert very little influence upon the normal reproduction of Salmonid fishes in these natural water areas.
著者
小林 幹男
出版者
長野女子短期大学出版会
雑誌
長野女子短期大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.7, pp.11-30, 1999-12-21

五街道宿駅の役割は、公用通行者に人馬を提供し、継ぎ立てを行うこと、および幕府などの公用通行者や参勤交代の諸大名、公家・公卿などの貴人らに休息・宿泊の施設を提供することであった。江戸時代の宿駅の負担は、幕末期に向かって年々増加するが、助郷村の負担もこれに伴って必然的に増加し、宿駅と助郷村との紛争も各地で頻発した。幕末期に街道通行が増加した原因は、幕府などの公用旅行者の増加と経済の発達に伴う商品流通の拡大であったと考えられる。文久元年(1861)の皇女和宮下向の大行列と文久2年の幕政改革に伴う翌3年の通行量の増加は、幕末期の宿駅と助郷村の負担の増加の中でも特筆に値する。「和宮様の御通行」といわれる大行列は、京方1万人、江戸方1万5千人といわれ、文久元年10月20日辰刻に京の桂宮邸を出発し、11月14日に板橋宿に到着して、翌15日に無事江戸に入った。和宮下向の大行列の特色は、きわめて短期間に8万人もの人馬・調度が街道を通行し、宿駅と助郷村に大きな負担を課したことである。また、文久3年の人馬の通行は、長久保宿の場合、文久元年の人足総数が22,693人、馬8,412疋であったのに対して、文久3年の通行は、大名家の妻子などが国許に帰るものが多く、人足総数47,507人、馬9,439疋を数え、春から秋にわたって街道を通っている。和宮下向の人馬・調度の継ぎ立てのために、中山道八幡宿に動員された助郷村は、定助郷佐久郡28か村、当分助郷小県郡14か村、更級郡14か村、埴科郡8か村、新規当分助郷佐久郡4か村、小県郡6か村、遠国新規当分助郷甲州八代郡72か村、越後国蒲原郡64か村と記され、合計120か村(清水岩夫1998 史料16)の村々に助郷が割当てられている。このとき八幡宿と塩名田宿は、岩村田宿・小田井宿と合宿(組合)になって和宮の大行列を次の宿泊地である沓掛宿まで継ぎ通しを命ぜられた。また、下水内郡栄村の市川家に伝わる文書(現在県立歴史館に寄託)によれば、北信濃の高井19か村が岩村田・小田井両宿に助郷を命ぜられている。この奥信濃ともいわれる村々から追分宿へは、飯山・迫分間がおよそ100キロである。この距離に飯山から奥信濃の各村々への道程を加えれば、少なくとも片道2泊3日以上の行程になるであろう。また、「野沢温泉村史」によれば高井郡37か村が、追分・沓掛・軽井沢の浅間3宿に助郷を命ぜられたと記されている。この北信濃関係の調査は、まだ不十分であるが、その実態を探ることは、和宮下向と北信濃の農村の助郷問題を考え上で重要である。本稿では和宮の下向と北信濃の高井郡各村の助郷問題と共に、近世における奥信濃の街道交通の問題も合せて推考し、遠隔地の助郷に関連する助郷村と農民の負担の問題も考察することにした。