著者
五郎丸 仁美
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.43, pp.77-108, 2012-03

ニーチェ哲学における自由─必然の問題は、超人思想と永遠回帰説の矛盾として最も先鋭化するとされてきたが、一方でツァラトゥストラは自由と必然の一致を歌いあげてもいる。この事態をどのように解釈すべきだろうか。 そこで中期まで遡って、上記の矛盾の前形態と思われる「自由精神」と「自由意志の否定」の共存に関する叙述を追うと、自由─必然が寧ろ常に逆説的相関関係にあることが分かる。まず価値創造の自由へと向かう必然的な衝動というものが存在し、それが覚醒する選ばれし者が自由精神である。自由精神はかの衝動に従ってあらゆる幻想、殊に自由意志という幻想の破壊者となり、一切は必然であると認識するが、それによって新たに罪や後悔、疾しい良心からの自由が拓け、無垢なる軽やかさが近づく。また必然性のうちでも、生命感情の高揚においては自由の感情を享受することが可能であり、この場合の自由は力とほぼ同義で、生を活性化する。必然性の内なる自由の感情は、カオス的世界の必然性を美として肯定しようとする運命愛へと昇華する。 以上の相関性を超人─永遠回帰に置き移すと以下のように解釈できる。即ち、自由精神の子孫として価値創造の自由を獲得する超人へと向かう必然性が永遠回帰の内に組み込まれており、また超人は自由精神による必然性の認識が準備した永遠回帰思想を血肉化していて、その暗黒面に脅かされることがない。超人は罪悪感や自責の念のみならず徒労感からも完全に自由な子供のような遊戯者だからである。最後に、必然性の内で享受される自由の感情は、超人が永遠回帰の内で、その運命を愛することによって生命感情を高揚させ、自由ないし力の感情を存分に満喫する、ということを意味するだろう。 従って超人思想と永遠回帰説は自由と必然として切り結ぶわけではない。 超人が到来してもいつかは再び現在の卑小な人間の時代が回帰するという徒労感が問題なのだ。このため自らの思想である永遠回帰説に躓いてしまうツァラトゥストラは、この教説が孕むこの虚無を克服して一切を差し引きなしで肯定しつつ必然性における自由を謳歌するという超人の境地を、知的憧憬によって先取し、生成の必然性を戯れとして美化した仮象世界のうちではあれ、自由と必然の一致をリアルに感得していたと考えられるのである。

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