著者
吉永 明弘
出版者
千葉大学公共学会
雑誌
公共研究 = Journal on public affairs (ISSN:18814859)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.161-200, 2015-03

環境倫理学がアメリカで誕生してから30 年以上が経過している。当初は「人間中心主義」は克服しうるか、自然物に「内在的価値」を認めうるか、といった総論的な議論が中心だったが、1990 年代から、個別具体的な環境問題に応答しうる議論を行うべきだという主張(環境プラグマティズム)がなされ、他の環境研究者との学際的連携や政策提言が志向されるようになった。日本では、加藤尚武が、①権利概念の自然物への拡張、②将来世代への責任を組み込んだ意思決定システムの構築、③地球の有限性の自覚に基づく新しい政治経済体制の正当化といった論点を提出し、鬼頭秀一が、それぞれの地域に特有の自然観や文化(ローカルノレッジ)に立脚した「ローカルな環境倫理」の構築の必要性を提唱した。 このような中で、筆者は、これらの環境倫理学の議論が「ご託宣」や「お説教」にならずに、各人が自分自身のこととして受けとめる(自覚化する)ためには、どのような論じ方が必要か、ということをテーマの一つとして考えてきた。そのテーマは、環境プラグマティズムの主唱者のライト(Andrew Light)のいう、環境保全の「動機づけ」の問題(Light 2002)とも重なっているが、それを考えるには、すでに環境保全を行っている人の実際の動機を探ることが参考になるだろう。サイエンスライターのタカーチ(David Takacs)による保全生物学者へのインタビューの中には、彼らが保全生物学を専攻したきっかけについて語っている箇所がある。その中に、子どもの頃の遊び場でもあった身近な自然が不当に破壊されたことへの憤りによって環境保全に動機づけられたという趣

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