- 著者
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栗山 圭子
Keiko KURIYAMA
- 出版者
- 神戸女学院大学女性学インスティチュート
- 雑誌
- 女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
- 巻号頁・発行日
- no.32, pp.1-23, 2018-03
産む、授乳する、育てる、教育する、PTAや学校行事への参加などで保護者役割を代表する等、「積みすぎた」現代の母とは異なり、日本中世においては、母役割は複数の人間によって分担されていた。本稿では、安徳天皇「母」を事例に、中世における多様な「母」とそれぞれの母役割について論じる。安徳天皇には8人の「母」が存在した。それらは、国母(こくも)/乳母(めのと)/准母(じゅんぼ)に類型される。第一に、国母とは、天皇の産みの母である。天皇に対する日常的奉仕や養育というよりも、特に、天皇の務める公務や儀式など公的空間における扶助を行うことが求められた。次に、乳母は、授乳をはじめ、養君の人生全般に寄り添い、もっともその身体に密着して、養育・教育・しつけを行った。第三の准母は、院政期(平安時代末~鎌倉時代初頭、ほぼ12世紀の100年間)に特徴的な「母」である。国母が上記した本来果たすべき公的空間における天皇の後見を行い得ないときに、准母はその代替を行うべく設定された。安徳天皇の4人の准母の変遷を分析すると、誰が・どのタイミングで准母に選定されるかは、後白河院(安徳父方祖父)と平清盛(安徳外祖父)との抗争という、時の政局と連動していることがわかる。つまり、天皇に付された後天的な「母」である准母は、いかなる勢力が安徳の後見主体であるのかを明示するものであった。准母をはじめとする中世における多様な「母」の在り方は、まさに当該期の社会構造の中から生み出されたものなのである。