著者
小坂 美保
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.32, pp.53-72, 2018-03

スポーツにおいて素晴らしい記録がでたとき、当該アスリートには「賞賛のまなざし」と「ドーピングでは?」「疑惑のまなざし」が向けられる。女性アスリートには、この2つのまなざしだけでなく、「男性では?」という「性別へのまなざし」が加わる。本報告では、性別に疑惑を向けられたある女性アスリートを事例に、スポーツにおける性別問題について考察をおこなった。競技を実施する上での平等性の確保とともに、女性のパフォーマンスが男性をうわまわる可能性を排除しようとする構造がスポーツ界に存在するのではないだろうか。そのために、髙いパフォーマンスを発揮した女性アスリートに対して「性別疑惑」が浮上し、「女性選手」のカテゴリーへの包摂を拒むのである。そして、当該選手が、「女性選手」として競技に参加するためには、「女性選手」という枠組みに適合する身体にならなければならない。近代スポーツは、「女」か「男」かという二分法を揺るがす選手の存在は、近代スポーツが抱える「女性/男性」という枠組みの枠組みの限界を示しているともいえるのである。When an athlete produces a remarkable sports record, he or she will receive both "admiring glances" and "suspicious glances" saying, "Was there doping?" In addition to these two kinds of glances, female athletes will also receive "sexual glances" saying "Are you a man?" This report examined gender issues cases in sports studies, taking a female athlete facing an allegation about her gender as the example case. Isn't there a system in the sports world seeking to eliminate the possibility that the performances given by female athletes would exceed those by male athletes as well as to secure fairness in our playing sports? For this reason, female athletes who have demonstrated a high performance will face a "gender allegation" and not be allowed to be categorized as "female athletes" for participating in a sports competition as a "female athlete" . In modern sports, the rules and culture of sports competition have been formed based on the two-category system of "men" and "women" . Therefore, it can be said that the presence of athletes undermining this two-category system shows the limitation of the modern sports' framework where all athletes are categorized as either "men or women" .
著者
栗山 圭子 Keiko KURIYAMA
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.32, pp.1-23, 2018-03

産む、授乳する、育てる、教育する、PTAや学校行事への参加などで保護者役割を代表する等、「積みすぎた」現代の母とは異なり、日本中世においては、母役割は複数の人間によって分担されていた。本稿では、安徳天皇「母」を事例に、中世における多様な「母」とそれぞれの母役割について論じる。安徳天皇には8人の「母」が存在した。それらは、国母(こくも)/乳母(めのと)/准母(じゅんぼ)に類型される。第一に、国母とは、天皇の産みの母である。天皇に対する日常的奉仕や養育というよりも、特に、天皇の務める公務や儀式など公的空間における扶助を行うことが求められた。次に、乳母は、授乳をはじめ、養君の人生全般に寄り添い、もっともその身体に密着して、養育・教育・しつけを行った。第三の准母は、院政期(平安時代末~鎌倉時代初頭、ほぼ12世紀の100年間)に特徴的な「母」である。国母が上記した本来果たすべき公的空間における天皇の後見を行い得ないときに、准母はその代替を行うべく設定された。安徳天皇の4人の准母の変遷を分析すると、誰が・どのタイミングで准母に選定されるかは、後白河院(安徳父方祖父)と平清盛(安徳外祖父)との抗争という、時の政局と連動していることがわかる。つまり、天皇に付された後天的な「母」である准母は、いかなる勢力が安徳の後見主体であるのかを明示するものであった。准母をはじめとする中世における多様な「母」の在り方は、まさに当該期の社会構造の中から生み出されたものなのである。
著者
藏中 さやか Sayaka KURANAKA
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.31, pp.7-35, 2017-03

本稿は、2016年3月におおよその整理がついた本学図書館所蔵「由起しげ子文庫」の資料紹介に主眼を置きつつ、作家由起しげ子 (1900-1969) の執筆活動について複数の視点から述べたものである。「文庫」資料を検討することで、従来の解説や年譜類に記されてきた事柄の詳細や新たに浮き彫りになる事実があることを示した。まず、1949年芥川賞受賞後翌年の発言を載せる対談資料から、当時の由起に対する人物評を再確認するとともに、由起自身の教養観や結婚観等を紹介した。続いて、初期長編作品の執筆順に言及し、また同時期までの童話を中心とする原稿類から、編集者八木岡英治の関わりを具体的に示した。さらに表題や作中人物名の推敲の痕跡を示し作家としての拘りの所在について触れた。日記、雑記帳類からは個々の作品に繋がる記載を拾い上げ、事実を備忘録的に書き留めたそれらの記載がそのまま作品構想メモにもなっていること等を記載毎に意義づけた。最後に、原節子主演『女ごころ』(1959年2月公開、東宝)の原作小説である「試験別居」と「文庫」資料中の2種の脚本を取り上げ、日記の記述を基に考察を加えながら、文学作品が映像化される過程を辿り、作品の単行本化と映画公開に見える相互関係を明らかにした。以上、従来、1955年ころから多く発表した中間小説が強く印象づけられてきた作家由起しげ子の一面を、活動初期を中心に見直し、新たな資料によって立体的に捉えたのが本稿である。作家の草稿を用いた研究の一事例でもある。
著者
小門 穂 Minori KOKADO
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.30, pp.21-41, 2016-03

本論文では、フランス生命倫理法を対象とし、生殖補助医療の実施に際して、配偶子(精子・卵子)の提供者はどのような基準に従って、どのように選ばれているのかを検討する。配偶子提供の制度という「見える文化」から、フランス社会における配偶子提供者のいちづけという「見えない文化」を明らかにすることを目指す。フランスでは、産婦人科のある大学病院や公立病院に併設されているCECOS ( Centre d' Etudes de Conservation des OEufs et du Sperme : 卵子精子研究保管センター)が提供配偶子を提供者から受け入れ、保管、利用のための受け渡しを行っている。精子提供は、CECOS設立以降、CECOSの精子取り扱い基準、つづいて、1994年からは生命倫理法に基づいて設けられた配偶子の提供者に関する基準にしたがって実施される。提供者は、感染症の検査や家族歴と病歴の聴取に医学的な問題が発見されず、生殖の経験があり(実子がおり)、書面による同意を行った者である。生殖能力を損なう医療処置を受ける予定があり、後の自己の利用を目的として配偶子や生殖組織を保存する者は、生殖の経験がなくとも、保存する配偶子の一部を提供することができるようになった。SECOSの精子取り扱い基準やこれを踏襲した1994年の生命倫理法が規定していた要件ー提供者がカップルの一員であること、生殖の経験が必須であることーは、2004年と2011年の生命倫理法改正の際に提供者不足の解消を目的として緩和されてきた。提供者を、受領者からの要望はなく、議論もなされていない。提供者の要件の緩和から、提供者を確保するために、提供者の「非人間化」(南 2010)がゆるやかに進んできたことをみてとることができる。
著者
古村 敏明 Toshiaki KOMURA
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.30, pp.43-64, 2016-03

本論文、「写真の中の生きる死者:Sharon Olds's The Dead and the Living」では、現代アメリカ詩人Sharon olds の詩集 The Dead and the Livingを題材に、生きているときの死者の写真を見る、という行為の中で感じられる間接的な喪失感とそこから生まれる共感の可能性について考察する。William Shakespeare が Sonnet 18 で表現しているように("So long as men can breathe or eyes can see, / So long lives this, and this gives life to thee")、芸術作品はその作品に描かれたものをその死後も永続させる力を持つ。死者の生前の写真の場合、そこに「芸術的生」(artistic life)と作品の中の対象の実際の死が共存するスペースが生じ、本の中の出来事が常に現在形で表されるのと同様に、死者の生が、過去のものであるだけでなく、現在にも存在し続ける。ただ、それはRoland Barthes, Walter Benjamin, Susan Sontag らの代表的な写真理論で示唆されているように、倫理的な問題を孕む、オーセンティックな主体が失われたものとしてである。 Olds の ekphrasis は、この芸術的生と現実の死を通して、より倫理性の高い共感を作る可能性を模索している。 "Photograph of the Girl" に代表されるように、Olds が描く死者は、写真で失われるオーセンティックな主体性を修復するかのように、その生及び性を主張する。この主体主張による「創られた真実性」(artificial authenticity)とそのフィクション性の認識の中から倫理的な共感が発生しうること、そして、それが喪失の間接性によって隠された、本当の喪失の知覚を可能にするということが、本論文の主旨である。
著者
矢内 真理子 Mariko Yanai
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.30, pp.65-90, 2016-03

「デイジー~3.11女子高生たちの選択~」(漫画:ももち麗子、原作:小林照弘、草薙だらい、信田朋嗣)は講談社の少女マンガ誌『デザート』に連載された作品である。本作品は原発事故後の福島の高校に通う4人の高校3年生の卒業までの1年を描いている。「デイジー」が他の原発事故を題材にした作品と異なり評価できる点は2点ある。第1に本作品は架空の人物が登場するフィクションだが、作者が福島の学生などに取材した内容に基づいて構成していること、第2に少女の日常生活に及ぶ事故の影響を、少女マンガの最大の特徴である登場人物の細やかな心の動きを用いて描いていることであり、それゆえ本稿では本作品を分析の対象とした。困難な局面において主人公たちが進路決定、職業選択を行う経緯を、地域社会をどう意識しているか、事故前と比べて地域社会との結びつきが強化されているかという視点から分析した。その結果、いずれの登場人物も「福島のために」貢献したいという動機を持って進路選択をしていること、事故前と比べて明らかに地域への意識が高まっていることが明らかになった。登場人物たちは一見、自らの意思で職業選択を行い、メディアで表象されてきた旧来のジェンダー像とは異なった主体的な生き方が描かれているようにも見える。一方で、モラトリアムの時期を持たずに地域のための働き手として、大人としての役割を期待されているとも捉えることができる。家庭とは、子どもにとっていつでも見守られていて、外の世界で危険があれば帰ることができる「安全基地」であるという。それは家庭だけでなく、地域と人間においても同様のことが言えるのではないか。原発事故によって「安全基地」の揺らいでいる状況が、少女の地域社会への結びつきを精神的にも、肉体的な身の置き所としてもより強めていると指摘できる。Daisy: High School Girls' Choices after March 11 (Manga: Momochi Reiko: original: Kobayashi Teruhiro, Kusanagi Darai, and Nobuta Tomoji) is a series that appeared in the shojo-manga magazine Dessert (Kodansha Ltd.). It depicts four high school seniors attending school in Fukushima over a one-year period after the power plant accident. Two aspects differentiate Daisy from other works dealing with the accident and make it suitable for analysis. First, although it is a work of fiction, the content is based on actual interviews of students in Fukushima. Second, the impacts of the accident on the characters' lives are depicted through subtle changes in the characters' emotional states, which is a hallmark of shojo-manga.The manga was analyzed from the standpoint of the characters' views of the local community in the context of choosing life courses and careers, and whether the characters' connections ti the local community strengthened or weakened after the accident. All characters chose life paths motivated by the desire to "help Fukushima" and had greater interest in their communities after the accident. On the one hand, the characters are depicted as proactively choosing career paths and life styles that differ from gender stereotypes. On the other hand, this may also be interpreted as an expectation that the characters move quickly into their roles as adults to better their community without the usual moratorium. Families function as secure bases to protect children at all times, and to which children can return when they encounter dangers in the outside world. Perhaps the same can be said of communities and people as a whole, In a context where secure bases have been shaken by the accident, it appears young girls' ties to local communities as settles in both emotionally and physically have strengthened.
著者
高橋 雅人 Masahito Takahashi
出版者
神戸女学院大学女性学インスティチュート
雑誌
女性学評論 = Women's studies forum (ISSN:09136630)
巻号頁・発行日
no.31, pp.133-153, 2017-03

本論文は、プラトン『法律』には女性性を評価する視点があることを論証しようとするものである。そのために、まず一節でプラトンの『法律』でクレイニアスの求めに応じてクレテ島に建設されることになるマグネシアにおける女性の主に政治との関わりについて確認する。ついで二節において、『法律』における結婚の意義について『国家』の妻子共有論と比較しながら考察する。三節ではプラトンの女性の「本性」観を検討し、女性性と節制との関係を明らかにした上で、『法律』が節制を重んじる対話篇であることから、プラトンが女性性を重視していることを明らかにする。