著者
蒲生 郷昭
出版者
The Society for Research in Asiatic Music (Toyo Ongaku Gakkai, TOG)
雑誌
東洋音楽研究 (ISSN:00393851)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.73, pp.43-61, 2008

本稿は、絵画資料にもとづきながら、「三曲合奏」はいつごろから行われていたのか、という問題を考察するものである。<br>明暦元年 (一六五五) 刊の遊女評判記『難波物語』には、床に並べて置かれた三味線、箏、尺八を描いた挿絵がある。年代の明確な資料としては、箏の加わった三楽器の組み合わせの初見である。<br>しかし、それより早い「元和~寛永年間初期」の作とされる相国寺蔵『花下遊楽図屏風』には、三味線と胡弓による合奏と、三味線と箏、胡弓による合奏とが、描かれている。さらに、ほぼおなじ時期の合奏を示すと考えられる、つぎの資料がある。<br>すなわち、『声曲類纂』巻之一に「寛永正保の頃の古画六枚屏風の内縮図」として掲げられている二つの挿絵のうちの、遊里の遊興を描いているほうの挿絵である。これは模写であり、「古画六枚屏風」は現存しない。しかし、かつて吉川英史が『乙部屏風』として紹介した模本が別に存在する。二つの模写は構図と人物配置が違っていて、その点では『乙部屏風』のほうが、原本に忠実であると考えられる。<br>『乙部屏風』でいえば、遊里場面の中ほどにいる十一人は、一つのグループを形成している。つまり、三味線、胡弓、尺八が伴奏する歌に合わせて踊られている踊りを見ながら、客が飲食している様子が描かれているのである。踊りを度外視すれば、そこで演奏されている音楽も、後の三曲の楽器による合奏にほかならない。<br>すなわち、これらの楽器による合奏は、こんにちいうところの「三曲」が確立するよりかなり前の寛永ごろには、すでに行われていたことがわかる。これらの楽器をさまざまに組み合わせた絵はその後も描かれ、こういった合奏が早い時期から盛んに行われていたことをよく示している。その流れをうけて、こんにちの三曲合奏につながる合奏が行われるようになるのである。

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