- 著者
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駒居 幸
- 出版者
- カルチュラル・スタディーズ学会
- 雑誌
- 年報カルチュラル・スタディーズ (ISSN:21879222)
- 巻号頁・発行日
- vol.6, pp.81-101, 2018
1997 年に発生した東電OL 殺人事件は、東京電力で総合職を勤める被害者が夜には売春婦として客引きをしていたことが明らかになると、一気に報道が過熱した。週刊誌を中心に行われた被害者の私生活を暴くような報道は、売春婦が規範的な市民から疎外され、それ故にその死が嘆かれえないことを示している。本論では、こうした売春婦の死を悲嘆し追悼する作品として、桐野夏生『グロテスク』(2003)を取り上げる。東電OL 殺人事件をモチーフに書かれた本作では、二人の売春婦が殺害される。本論では、二人の姉であり、同級生である語り手の「わたし」の語りに着目をする。「わたし」は売春婦の悪口=ゴシップを言いながらも、最終的には彼女たちの「弔い合戦」を行う。こうした弔いはどのようにして可能になるのか。本作には、客観的なゴシップの「語り手」であろうとしていた「わたし」が、徐々に「語られる対象」としての「わたし」に一致して行く過程が描かれている。本論は、この過程の中に「わたし」のメランコリーを読み込み、「わたし」のゴシップが彼女たちの喪失を回避し、自らの内側に引き込むための儀式として機能していること、そして、そうした儀式こそが売春婦の死の追悼を可能にしていることを指摘する。