- 著者
-
駒居 幸
- 出版者
- カルチュラル・スタディーズ学会
- 雑誌
- 年報カルチュラル・スタディーズ (ISSN:21879222)
- 巻号頁・発行日
- vol.6, pp.81-101, 2018 (Released:2019-10-09)
- 参考文献数
- 34
1997 年に発生した東電OL 殺人事件は、東京電力で総合職を勤める被害者が夜には売春婦
として客引きをしていたことが明らかになると、一気に報道が過熱した。週刊誌を中心に
行われた被害者の私生活を暴くような報道は、売春婦が規範的な市民から疎外され、それ
故にその死が嘆かれえないことを示している。本論では、こうした売春婦の死を悲嘆し追
悼する作品として、桐野夏生『グロテスク』(2003)を取り上げる。
東電OL 殺人事件をモチーフに書かれた本作では、二人の売春婦が殺害される。本論では、
二人の姉であり、同級生である語り手の「わたし」の語りに着目をする。「わたし」は売春
婦の悪口=ゴシップを言いながらも、最終的には彼女たちの「弔い合戦」を行う。こうし
た弔いはどのようにして可能になるのか。本作には、客観的なゴシップの「語り手」であ
ろうとしていた「わたし」が、徐々に「語られる対象」としての「わたし」に一致して行
く過程が描かれている。本論は、この過程の中に「わたし」のメランコリーを読み込み、「わ
たし」のゴシップが彼女たちの喪失を回避し、自らの内側に引き込むための儀式として機
能していること、そして、そうした儀式こそが売春婦の死の追悼を可能にしていることを
指摘する。