- 著者
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栄原 永遠男
- 出版者
- 大阪歴史博物館
- 雑誌
- 大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
- 巻号頁・発行日
- vol.18, pp.1-18, 2020
考古学的な調査研究により、後期難波宮の中枢部には壮大な宮殿建築群が建てられており、京域には条坊制が敷かれていたことが明らかになった。これにより、後期難波宮・京には多くの人々が住み、繁栄していたというイメージが出来上がっている。しかしそれらはあまり根拠がなく、遷都や行幸時と平時とにわけて、再検討が必要である。大粮申請文書その他の分析によると、各官司はそれぞれ独自の建物や院を持つことはなく、合同庁舎・合同院の一角にコーナーを保持していた。合同庁舎・合同院は、一、二の官司が仕丁とそれを指揮監督する使部などの雑任を配置する形で保守されていた。後期難波京の京域については、貴族が邸宅を持っていたが常住することはなく、家令に管理させていた。また使部や家令が家を持ち家族が住んだ可能性はあるが、正方位の家がびっしり立ち並ぶ状態ではなかった。以上は平時の場合であるが、遷都や天皇が行幸してくると状況は一変した。多くの官人が来て官僚機構も機能し、貴族やその家族も居住した。