著者
杉本 厚典
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.19-42, 2023 (Released:2023-06-03)

江戸時代から明治時代の『買物案内記』をもとに、菓子店の分布とその変化について検討した。その結果、安永期(18世紀後葉)の菓子店の分布が北船場に偏るが、文政期~明治期(19世紀)にかけて市中一円に分布するように変化することを示した。その背景として安永期までの菓子店が得意先を富裕層の多い北船場に求めたのに対し、文政期以降、砂糖の供給量が増加するにつれて、金米糖、砂糖漬け等、菓子が普及し、富裕層以外へも菓子の消費者層が拡大したことによって、大坂の町中に菓子店が拡がったと推測した。
著者
寺井 誠
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.17-36, 2021 (Released:2022-02-26)

本稿は、土器製作の際に用いられる木製有文当て具について、日本列島と朝鮮半島の当て具の出土事例や土器の内面に残る当て具痕跡の観察を通じて、共通点・相違点を明示し、将来的に当て具痕跡を基にした交流の研究につなげるための基礎的研究である。その結果、日本列島のものはほとんどの場合が同心円文で、木目の影響を受けなくとも同心円文を踏襲するが、朝鮮半島については木目とは関係なく、平行文や格子文が刻まれ、当て具文様についての基礎的な認識が異なる可能性があることを確認することができた。また、北部九州や北陸地方などで見られる同心円文以外の当て具(平行文など)については、朝鮮半島の影響を受けた可能性があると考えた。

3 0 0 0 OA 中世木津考

著者
大澤 研一
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.0001-0016, 2023 (Released:2023-06-03)

大阪市浪速区に比定される中世木津の集落は織田信長と大坂本願寺のあいだで繰り広げられた大坂本願寺戦争の激戦地となったことで有名だが、現在では地形環境が大きく変容してしまい、往時の姿を知ることは難しい。そこで最近発表された木津一帯の発掘調査の集成による地形環境復元研究をベースに、近世前期の絵図、さらには文献史料にみられる木津一帯の地名などの情報を加えることで、中世から近世前期における木津周辺の地形変容についてさらなる検討をおこない、木津の立地条件が海辺近くから内陸へと変化していった状況を改めて確認した。また中世木津の社会状況を知るため、本願寺教団の木津における活動を検討した。その結果、当地には遅くとも十六世紀には二つの末寺寺院および有力な直参門徒が存在し、さらに木津の惣が大坂本願寺と密接に交流していた様子を指摘した。以上の木津をめぐる状況が大坂本願寺戦争の激戦地となる前提条件であったと考えられる。
著者
大澤 研一
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.0033-0042, 2016 (Released:2022-05-21)

慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣は、近世大坂の町の成立を考えるうえで一つの大きな画期となった。しかし、その後の復興の過程については関連史料が少なく、詳しい状況はわかっていなかった。最近確認した高津屋の記録は天明六年(一七八六)のものであるが、高津屋が元和六年(一六二○)にかけて上町の町割りをおこなったこと、大坂城外曲輪の堀を埋めた後の土地を開発したという復興の具体にかかわる記述があるほか、復興後、町家としての利用のなかった土地を支配し続け、そのなかから大坂城定番や大坂役人衆の屋敷として収公されていく土地のあったことをその場所を書きあげて記している。こうした特定の町人が大坂の町の復興にかかわった事例はこれまで知られておらず、また復興した土地がその後利用されていく様子を伝えたこの史料はたいへん貴重なものと評価できる。本稿ではこの史料を全文翻刻し、今後の活用に供するほか、本史料のもつ歴史的意義を明らかにしようとしたものである。
著者
栄原 永遠男
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-9, 2015 (Released:2022-05-28)

聖武天皇は、神亀₃年に難波宮に行幸し、藤原宇合を知造難波宮事に任命し、難波宮の造営に乗りだした。しかし、聖武天皇は、この行幸の前に、播磨国の印南野に行幸し、そののち難波宮にまわっている。この連続する二つの行幸には関連があるとみるべきである。聖武天皇の即位初期の行幸は、いずれも自らの皇位の正当性を明示する場所を目的地としているので、印南野行幸も同様に考えることができる。印南野にはかつて中大兄皇子が行き、祥瑞である豊旗雲を見ている。瑞雲の著名な例として、壬申の乱のさなか名張で大海人皇子が見たものがある。聖武天皇は、この両方を知っていたはずであるが、そのうち印南野に行幸したのは、その地が、節日や鎮魂祭・大嘗祭などに供される柏の採取地であったからである。印南野の柏がこれらの王権にかかわる祭祀に使用されるのは、かつてこの地の豪族と天皇家との間に婚姻関係があり、贄が貢納されていた伝統による。聖武天皇は、祥瑞を見るために天皇家とゆかりの深い印南野に行幸し、天智・天武天皇の後継者たることを自他ともに示した上で難波宮に行幸し、その皇位の正当性を象徴する宮として難波宮の造営を命じたのである。
著者
伊藤 純
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.0069-0081, 2017 (Released:2022-10-30)

光格天皇は、天明六年(一七八六)に隠岐国駅鈴を実見した。駅鈴は古代律令制下で、天皇が日本各地を支配するためのモノであった。駅鈴の存在を知った光格天皇は、日本国の歴史が古代から連綿と続いているのを認識した。天明八年(一七八八)に御所が焼失した。三年後、御所は古代王朝風の姿に再建され、寛政二年(一七九〇)一一月二二日に新御所への遷幸が行われた。朝廷の存在と権威を市中に知らしめるため、遷幸行列は古代王朝風の姿で行われた。この行列に隠岐国駅鈴が加わった。今日、光格天皇は復古的と評され、討幕、明治維新へという流れの出発点となったとされる。光格天皇が幕末史で画期となったのは、歴史の必然、時代の要請というような言葉で説明できるものではない。光格天皇の世界観、歴史観、国家観に決定的な影響を与えたのは、古代と光格天皇の時代を結びつけた隠岐国の駅鈴だったのである。
著者
内藤 直子
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.0051-0062, 2012 (Released:2022-06-19)

天明元年(一七八一)に大坂で出版された『装剣奇賞』は初の本格的な細密工芸の作家名鑑として、刀装具や根付研究に今なお大きな影響を与えているが、その意義や筆者稲葉通龍については、昭和十六年の後藤捷一『稲葉通龍とその著書』以降、大きな進展がなかった。本稿は、大阪府立中之島図書館本(開板出願用の手稿本)、住吉大社本(奉納された初版本)、大阪歴博本(普及本)の三種の本をもとに、本書の成立について時系列的に考察を行った。その過程で、混沌詩社や木村蒹葭堂との接点、さらには安永四年(一七七五)刊行の『浪華郷友録』との類縁性に注目し、本書は大坂の文化ネットワークに組み込まれ得るとの視点を呈示した。一方、七巻に掲載されている根付師については同時代の大坂の出版物との異同表を作成し、当時の生業としての根付師の置かれた立場について、未だ余技的な要素が残るもののひとつのカテゴリーとして自立しつつあった状態ではないかとの推論を述べた。
著者
岡本 健
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.41-54, 2022 (Released:2022-05-07)

本稿では、従来「四天王寺系」の瓦工により生産されたと考えられてきた阿波地域の瓦のうち、代表的な資料と位置付けられる勝瑞城館跡の出土瓦を分析した。その結果、勝瑞城跡出土の軒平瓦は、14世紀から15世紀初めに比定される群と、16世紀後半に比定される群の2 群から構成されることが明らかになった。さらに、16世紀に比定される群と同笵・同文関係を有する瓦は阿波・淡路の諸遺跡から出土していることが明らかになった。摂津・河内と阿波・淡路の両地域のなかで同笵・同文瓦がまとまる傾向があり、両地域における造瓦活動は、技術導入の可能性は否定できないものの、基本的に別々に展開したと考えた。
著者
村元 健一
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
no.13, pp.11-24, 2015-02-28
著者
大澤 研一
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.0019-0032, 2017 (Released:2022-05-14)

近世の融通念佛宗は中世社会に広く浸透した融通念仏信仰を背景に誕生した。すでに筆者は中世の摂津・河内に展開した融通念仏信仰集団の構造、および十七世紀に融通念佛宗が形成される過程を明らかにしてきたが、それは教団機構の変遷を跡づけることによる、教団史な視点からの検討が主であった。 今回はそうした視点ではなく、融通念仏信仰を受容する側に、民衆が中近世移行期の社会のなかでどのような宗教的充足を欲したのかという視点にたち、浄土宗との比較をおこないながら、専門僧による葬送や回向の実施による家の永続の保証という民衆から突き付けられた課題への対応が、近世融通念佛宗教団が誕生する過程において大きな原動力のひとつになったのではないかという見通しを示した。
著者
池田 研
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.55-64, 2013 (Released:2022-06-11)

バイゴマは巻貝のバイの殻を素材にした独楽で、江戸時代には庶民の間で広く普及していたことが知られているが、考古学的には実態の不明な部分が少なくない。本紀要の第9号では大坂城下町とその周辺から出土したバイゴマの集成を行ない、文献史料と比較検討しながら年代、形状や作成技法、ユーザーの実態等について検討を加えた。本稿では、浪速区敷津東で出土した50点を超えるバイゴマや、難波宮・大坂城跡で出土したバイゴマ製造に係わる廃材など、新たに発見された資料をもとに、独楽の素材となるバイの選別基準や切断方法といった製造過程、製造業者の業態などについて検討した。その結果、大きさによって素材の選別が行われており、殻口側から連続して打ち欠くことで殻を切断したと考えられること、またバイゴマの製造業者が貝ボタンの製造を兼業していた可能性があることなどが明らかとなった。
著者
豆谷 浩之
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.0061-0071, 2015 (Released:2022-05-28)

近世大坂には諸藩の蔵屋敷が置かれていた。それらは江戸の大名屋敷とは異なって、各藩の必要性に応じて設置されるものであり、個別の事情に応じて、設置・廃止、あるいは移転するものであったことが特長である。幕府領である大坂に諸藩が土地を所有することはできなかった。そのため蔵屋敷、名代という町人名義の屋敷を借りるという形式をとったが、実質は藩が所有しており、売買や質入れなどで所有者が表面化する時には名代を介するという場合があった。また、名目だけではなく、実質の部分でも蔵屋敷を「借りる」という場合もあった。そのような選択肢があることで、蔵屋敷の設置や移動が容易になった側面があり、そのことが幕藩制下における商業・流通都市としての大坂の活性化に大きな意味を持っていたと考えられる。
著者
大澤 研一
出版者
大阪歴史博物館
雑誌
大阪歴史博物館研究紀要 (ISSN:13478443)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.0001-0018, 2015 (Released:2022-05-28)

豊臣期大坂城には豊臣秀吉に従う大名をはじめとする武家の屋敷とそれらが集まった武家地があった。しかし、どのような武家の屋敷がいつ頃より大坂に存在したのか、またその具体的な所在地はどこであったのかという点については、必ずしもよくわかっていなかった。そこで本稿では、特に慶長三年(一五九八)までの豊臣前期を対象に、大坂における武家屋敷と武家地の動向の大きな流れを示すとともに、妻子をともなって大坂に居住した武家が少なからずいたことや、町人地に散在して住んだ武家がいたことなどを示した。