- 著者
-
宮田 明
- 出版者
- 農業環境技術研究所
- 雑誌
- 農業環境技術研究所報告 (ISSN:09119450)
- 巻号頁・発行日
- no.19, pp.61-183, 2001-03
- 被引用文献数
-
5
大気中に存在するメタンは下層大気の熱収支および光化学において重要な役割を果していることから,近年の約10ppbv yr-1での濃度増加の影響が懸念されている.大気中のメタン濃度の増加の原因を明らかにし、それに対する人間活動の影響を評価するためには,地球規模でのメタンの収支の正確な評価が重要である.最近の見積もりによれば,水田を含む湿地は全発生量の約1/3を占める主要な放出源であり,また土壌は大気中のメタンの年々の増加量に匹敵する吸収源であるとされている.しかし,これらの見積りの不確定幅は大きく,さらに観測データの蓄積が必要である.従来の地表面でのメタンフラックスの測定は,おもに閉鎖型チャンバーを用いて行われてきたが,この測定法は測定環境を乱す可能性があり,また測定対象領域が1m2程度と狭いため,非一様性の大きな場所での測定値の代表性に問題がある.チャンバー法と他の測定法との比較もほとんど行われていない.本研究の目的は,チャンバー法とは異なるメタンフラックスの測定法を開発し,その方法をメタンの放出源や吸収源に適用することにより、陸上生態系(とくに湿地生態系)と大気間のメタンの交換に関する理解を進め,交換量の正確な評価を行うことである.微気象学的測定法と総称される接地層内でのガス輸送の測定法は,自然条件で,しかもチャンバー法に比べて広い領域の平均的なスフラックスを測定できる.なかでも,鉛直風速とガス濃度の共分散からフラックスを直接測定する渦相関法は信頼性が高く,水蒸気やCO2のフラックスの測定法として実用化されている.しかし,メタンなどの大気微量気体に関しては,渦相関法の適用に必要な高速の応答速度をもつガス分析計が開発途上にあるため,渦相関法の適用は容易ではない.このため,本研究では鉛濃度匂配の時間平均値からガスフラックスを推定する方法を採用し,水田,自然湿地および草地におけるメタンフラックスの測定に適用した. 濃度匂配からメタンフラックスを測定するためには,ガス濃度の鉛直濃度匂配の時間平均値の正確な測定と,高度の関数としての渦拡散係数KG(z),またはその積分型である拡散速度(コンダクタンス)Dfの正確な評価が重要である.いくつかの評価法のなかから,本研究では,おもに空気力学方法を用いてKG(z)やDfを評価した.ただし,従来の空気力学方法では,KG(z)の評価に必要な摩擦速度u*や安定度パラメータζを水平風速と仮温位の鉛直匂配から求めていたが,本研究でもこれらを超音波風速温度計を用いて,渦相関法で直接測定した.感度分析の結果,この方法(改良傾度法)ではu*と仮温度フラックスがともに小さい場合に,Dfの評価誤差が大きくなることから明らかになった.また,水稲のように背の低い作物の場合,地面修正量dの評価誤差のDfに対する影響は小さく,dを群落高の0.7倍と仮定して計算しても,実用上問題がないことがわかった.さらに,改良傾度法で評価したDfを用いて水田の顕熱,潜熱およびCO2フラックスを計算し,渦相関法によるフラックスと比較した結果,夜間の静穏時(u*が約0.1ms-1以下の場合)をのぞき,両手法はよい一致を示し,改良傾度法で評価したDfの信頼性が確認された.改良傾度法は超音波風速計1台でDfを評価できるため,従来の傾度法と比較すると,風速計や温湿度計の器差の問題がなく,長期観測に適している. 植物群落上のメタンの鉛直濃度匂配は,メタンの強い放出源である水田上でも日中は数10ppbv m-1の大きさである.この小さな濃度匂配を連続的に測定するため,大気バックグラウンド濃度のモニタリング用に開発された,非メタン炭化水素と水蒸気の影響を除去するための前処理部を備えた非分散型赤外線分析計を使用した.本研究の初期には,絶対値型の分析計を用いて2つの高度から吸引した空気を3分間間隔で交互に測定したが,後期には2高度間の濃度差を連続的に測定する差動型に変更した.野外環境での分析計の測定精度を検討し,データの処理法を改良することにより,30分間平均値で絶対値型については5ppbv,差動型では2ppbv程度の濃度差検出が可能になった.茨城県谷和原村にある農林水産省農業研究センターの試験水田で,1993年から1995年までの3作期に,メタンフラックスの観測を実施した.水稲群落上と群落内部のメタン濃度の時間変化および鉛直分布を測定した結果,メタン濃度は高度が低くなるとともに増加するが,とくに群落内部での濃度増加と時間変動が著しいこと,群落内外のメタンの濃度差の変動は風速の変動と対応していることがわかった.改良傾度法で求めた晴天日のメタンフラックスは,午後の早い時間帯に極大値を示し,夜間には小さくなるという,地温や風速と類似した日変化を示した.風速の変動が小さな日や曇天日のフラックスの日変化などを検討した結果,メタンフラックスの日変化は主として地温の影響を受けているが,風速(摩擦応力)との関連性も指摘された.3年間の水稲の栽培期間中・後期におけるほぼ連続した観測で得られた水田からのメタンの日放出量は30~580mgm-2d-1の範囲にあり,地温の長期的な変化と水田の水管理に対応した季節変化を示した.メタンの日放出量は平均地温とともに指数関数的に増加する関係が認められたが,温度依存性は年によって異なり,深さ5cmの地温に対するQ10の値(10Kの温度上昇に対するフラックスの増加率)は3.3~4.8となった.日放出量と地温の関係を用いて推定した水稲栽培期間のメタンの総放出量は,低温であった1993年は9.1gm-2,高温であった1994年は13.2gm-2、1995年は平均地温が1994年より1.5℃低かったにもかかわらず15.2gm-2であった.1994年と1995年の差は,湛水深の差による地温の日変化の振幅の違いがおもな原因と考えられる.1994年の水稲成熟期にチャンバー法との比較観測を実施した.改良傾度法によるフラックスは午後に極大値を示したのに対し,チャンバー法によるフラックスの時間変化は小さかった.チャンバー法で測定したメタンフラックスには場所による違いが認められたため,風上側の各区画からのフラックスの寄与率(フットプリント)をHorstとWeil(1994)の解析的方法を用いて評価し,寄与率によって加重平均したチャンバー法によるフラックスを,改良傾度法による測定値と比較した.数時間のフラックスの平均値を比較すると,改良傾度法によるフラックスの方が小さかった夜間を除いて,両手法はよく一致した.フラックスの30分値を比較した場合,チャンバー法によるメタンフラックスの時間変化が小さい傾向が,気象条件によるフットプリントの変化を考慮しても認められ,測定条件の違いがフラックスに影響を及ぼしている可能性も示唆された.以上のように,農業研究センター試験水田での観測結果は,従来のチャンバー法による測定結果とおおむね一致し,これまで報告されていたメタンフラックスの日変化や季節変化が,自然条件下での測定で確認された. 茨城県つくば市内の農業環境技術研究所内の実験草地で,微気象学的測定法を適用して土壌によるメタンの吸収フラックスの測定を行った.地表付近に安定層が形成される晴天夜間には,地上約1mの高度のメタン濃度に顕著な上昇がみられた.この濃度上昇は夏季だけでなく冬季にも認められたことから,観測点の周辺には水田以外のメタンの発生源があり,夜間の濃度の上昇はその影響と推定される.地上付近のメタン濃度の鉛直分布の測定により,夜間の静穏時に,高度0.7m以下の高度で草地によるメタンの吸収に対応する濃度匂配が観測された.このメタンに濃度匂配は,CO2の濃度匂配と逆向きで,その大きさはほぼ比例しており,また夏季だけでなく表層地温が10℃以下に低下した12月にも認められた.一方,日中には有意なメタンの濃度匂配は観測されなかった.メタンの濃度匂配が観測された静穏な夜間には,水田での観測で用いた改良傾度法で渦拡散係数を評価することはできない.そこで,メタンとCO2の渦拡散係数が等しいと仮定し,両ガスの濃度匂配の比に渦相関法で観測したCO2フラックスをかけて,メタンフラックスを算出した(修正ボーエン比法).この方法で求めた4月,10月および12月の夜間のメタンの吸収フラックスは14~16ng m-2s-1で,季節による差は認められなかった.このフラックスの大きさは,従来のチャンバー法で測定された温帯草地の吸収フラックスの上限に近い.チャンバーの設置は土壌中のメタン分解層へのメタンの供給を妨げる可能性があることから,チャンバーを使わずに自然状態で吸収フラックスを評価できたことは重要である.ただし,草地土壌によるメタンの吸収に対応する濃度の鉛直匂配を日中測定するためには,0.1ppbv以上の濃度分解能をもつ分析計が必要であることから,現状では修正ボーエン比法の適用は夜間に限られる. 改良傾度法によるメタンフラックスの測定法の適用を立証するため,間断かんがい実施水田(岡山大学農学部付属農場)や北部日本の湛水した湿原(釧路湿原)での観測に応用した.間断かんがい実施水田の落水期間の水稲群落上のCO2フラックスを湛水深約10cmの湛水期間と比較すると,夜間の放出量は約2倍に増加し,日中の吸収は23%小さかった.一方,水面からのCO2フラックスは,落水した土壌面からのCO2の放出量に比べて2桁小さかったが,両期間の地温はほぼ同じであった.この結果から,両期間の群落上のCO2フラックスの差は,田面水による土壌面から大気へのCO2拡散の遮断が原因と判断された.メタンフラックスは,湛水により日変化の振幅が減少し,日放出量も約28%減少した.CO2の場合と同様に,メタンの場合も田面水による土壌から大気への拡散の遮断が群落上のフラックスに影響を及ぼしているが,メタンは湛水期間でも水稲を経由して大気中に放出されるため,落水期間とのフラックスの差がCO2ほど顕著ではないと考えられた.改良傾度法は,釧路湿原の約70%を占める低層湿原(スゲ,ミツガシワ,ヨシ群落)におけるメタンフラックスの測定にも適用された.盛夏期(7月中旬~8月上旬)のメタンフラックスは約170mgm-2d-1で,低温にもかかわらず,水田と同程度に放出が観測された.メタンフラックスは昼前に極大値を示す日変化を示したが,気温が大きく異なる年次間のメタンフラックスの差は小さかった.観測地点が深さ40cm以上の湛水状態にあり,メタンの生成層である泥炭層の温度の日変化が小さいことから,植物経由のメタン輸送過程がメタンのフラックスの日変化の主たる原因と推定された. 本研究では,改良傾度法等の微気象学的なフラックス測定法を用いることにより,メタンの強い放出源である水田や湿原でのフラックスを,自然条件下で,長期連続的に測定できることを実証した.この方法は,湿原のように場所によるメタンフラックスの非一様性が大きく,しかも環境を乱さずにチャンバーを設置することが困難な場所でのメタンフラックスの測定には,とくに有効である.草地においても,静穏な夜間に限られたが,検出されたメタンの濃度匂配から吸収フラックスを推定することができた.今後,本測定法を用いた自然条件下でのフラックスの測定をチャンバー法による制御環境下での測定と相補的に用いることにより,陸上生態系と大気間のメタンの交換の研究の進展に寄与することができると考える.