- 著者
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エブベキーロフ セルヴェル
- 出版者
- 日本スラヴ・東欧学会
- 雑誌
- Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
- 巻号頁・発行日
- vol.23, pp.103-121, 2003-05-31
本講演で取り上げるイスマイル・ガスプリンスキイはロシア軍士官ムスタブァ・ガスプリンスキイの長男として1851年に生まれ、クリミア戦争期に一家は挙げてクリミアの古都バフチサライに移住し、1914年に死去するまでクリミア・タタールの文化復興運動に身を捧げた人物として知られる。彼が生涯を捧げた教育啓蒙活動はクリミア・タタールの歴史と文化の復興にとどまらず、足跡は広く中央アジア各地域にまで及び、後世"汎トルコ主義の父"と呼ばれるようになった。彼の受けた教育には19世紀中葉のロシア・インテリゲンツィアの教育啓蒙思想が色濃く反映しており、それを背景として帝政ロシア支配下のトルコ系諸民族の覚醒運動に影響を行使したといわれる。クリミア・タタールの祖国クリミア汗国はチンギスハーンの直系として金帳汗国の内訌から分裂して誕生した一汗国として1500年にバフチサライに首都を定め、学芸の拠点として大学を設立するなど繁栄を極めた。300年に及ぶ繁栄を謳歌したクリミア汗国は北方のリトアニア大公国やモスクワ大公国(のちのロシア帝国)へ略奪遠征を繰り返すなど、スラヴ諸民族の視点からは悪い評価が下されがちである。しかし、エカテリーナニ世により1783年4月に帝政ロシアに併合されるまでは中央アジアとヨーロッパをつなぐ文化交流の橋渡しの役割を演じ、その歴史的意義は無視されてはならない。クリミア汗国は金帳汗国の支配民族として黒海北岸に伝統的な遊牧生活するノガイ系のほか、海岸部には往時のギリシア(ビザンツ)系、ジュノヴァ系などのヨーロッパ系住民が居住し、首都バフチサライ周辺にはユダヤ系一派カライム人が居住するなど多民族社会を構成していた。チンギスカーンの直系たるクリミア汗はイスラム世界における政治的権威は高く、黒海対岸に勢力を拡大したオスマン帝国のスルタンもクリミア汗を格別の待遇をもって接したといわれる。高い学識と教養を備えたクリミア・タタール出身者はオスマン帝国社会でも重用され、幅広く活躍したといわれる。汗国の滅亡後クリミア・タタールの多くはオスマン帝国領内に散っていったが、故地バフチサライに残った人たちの間から文化復興の機運が芽生えたのは19世紀末になってからである。その中心人物がイスマイル・ガスプリンスキイであった。初等教育をバフチサライのズィンデルルィ神学校で学び、10歳のときにシンフェロポリのロシア・ギムナジウムで学んだあと、父の意向によりボロネジの幼年学校へ、ついでモスクワの士官学校へ進学した。しかし軍務を好まなかったガスプリンスキイは1867年密かにオデッサへ向かい、そこからイスタンブールへの密航を企てるが、旅券不所持ゆえに乗船できず、バフチサライへ帰郷した。バフチサライでは上記ズィンヂルルィ神学校のロシア語教師に任用され、精力的にロシア・インテリゲンツィアの社会思想を摂取した。並行して生徒向けにトルコ語の講習も自主的にはじめた。まもなくガスプリンスキイはタタール語の文法規則にアラビア語表記を当てはめることの不都合さを感じ、やがて神学校の旧弊な教育方法に批判的になり、その態度が神学校の保守派の反感を招き、辞職を余儀なくされた。1872年、ガスプリンスキイはヨーロッパ旅行へ出かけ、パリに落ち着いた。3年間のパリ滞在はその後の生涯にとって大きな意味をもった。というのもイヴァン・ツルゲーネフの秘書となる僥倖に恵まれ、ツルゲーネフの助言により彼はフランス語を習得して翻訳業に専念し、西欧文化を徹底的に学び、後の偉大な啓蒙家へ転身する足がかりをつかんだのである。西欧文明の摂取こそが後進的諸民族の開化の道筋と確信するに至ったガスプリンスキイは、帰国の途中イスタンブールを訪れ、冊子『西欧文化の概観』を発表し、「西欧文化を内部から学ばずしてわれわれは何も理解できない」と述べ、ムスリムの伝続社会を厳しく批判した。1875年冬、クリミアへ戻ったガスプリンスキイは、まずオスマン・トルコ社会の状況をつぶさに検討し、ムスリム社会の革新の方策を模索した。1879年、ガスプリンスキイはバフチサライ市長に就任する。市長職にあった4年間の最大の課題は民衆の啓蒙教化であった。啓蒙教化を図るには、何よりも誰も手にできる雑誌の刊行が実現されなくてはならなかった。ロシア政府にトルコ語による新聞雑誌の印刷を許可してもらおうと志し、1881年、シンフェロポリの印刷所で偽名の小冊子「ロシアのムスリム」を刊行し、「ロシアの同胞よ!われわれには学問と文化が必要だ。助けて欲しい」と書いている。その甲斐あってトルコ語による出版活動の許可が下り、1883年4月10日からのちにガスプリンスキイの名を高めることになる情宣誌『翻訳』を発刊するに至った。これはロシア語とトルコ語の併用であった。当初320部のみであった『翻訳』詰は、カフカス、カザン、中央アジア、シベリア、オスマン帝国領内、ルーマニア、ブルガリア各地に配布され、15,000〜20,000部までに発行部数を拡大した。ロシア帝国領内でも『翻訳』誌や彼の啓蒙活動は東洋学の大御所バルトリド等の高い評価を得、またペテルブルグの『イスラム世界』誌に紹介されている。啓蒙活動の一環としてガスプリンスキイは20世紀に入り、インドのデリー大学で講演したのを皮切りに、1908年にはエジプトでアラビア語による『覚醒』誌を発行するなど1914年に没するまで精力的な啓蒙活動を続け、中央アジアのトルコ系諸民族のあいだに強い影響を及ぼした。しかし、こうしたガスプリンスキイの輝かしい啓蒙活動はソヴィエト政権下では否定的な扱いを受けた。とくにスターリン体制下では「軍事的封建的帝国主義の鼓吹者」、「タタール・ブルジョアジーのイデオローグ」といったレッテル張りがなされ、「汎トルコ主義者」、「汎イスラム主義者」、「反動家」と規定されるなど歴史から抹殺される運命をたどった。1944年のクリミア・タタールの中央アジア追放後は文献に僅かに名を残すのみとなった。1970年代にクリミア・タタールの名誉回復が行われてから徐々にタブーが取り除かれ、1987年に雑誌『東方の星』に掲載された論文が肯定的な評価を与えた最初である。1991年3月、彼の生誕140年記念を機にシンフェロポリで国際会議が開催され、旧ソ連や東欧諸国をはじめ西欧諸国の東洋学者が一堂に会してガスプリンスキイの顕彰作業がはじまった。ガスプリンスキイの見直し作業は今後の課題である。クリミア・タタールの歴史と文化の複興、トルコ系諸民族の民族復興運動は、ガスプリンスキイの再評価と連動している。