著者
ボブロフ アレクサンドル
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.59-79, 2010-03-31

「二重信仰」(さまざまな信仰上の要素の混交)は世界のどの宗教にも見られる。文学作品では、「二重信仰」はキリスト教の異教化または異教のキリスト教化として理解されている。ルーシのキリスト教化は、正教と民間信仰が混交するということであり、それらが代替しあうということである。キリスト教と異教の混交によって、蛇型魔よけ、古代ロシアのロードおよびロジャニツァ崇拝、異教の神々の姿を聖人像と混同することなどが起こった。民衆の宗教観は、聖ミハイル・クロプスキー伝(1470年代)や、『ピョートルとフェヴローニヤ物語』(1540年代)における聖フェヴローニャの人物像に窺うことができる。キリスト教および異教の儀式や諸概念の代替は、蒸し風呂で行われる「通過儀礼」を見ることで、たどっていくことができる。蒸し風呂で行われる魔術は、それに対応する教会儀礼(洗礼、婚姻、通夜)の代役を果たす。したがって、ロシアの伝統において蒸し風呂は家庭における聖堂のようなものとして検討できる。movьと呼ばれる蒸し風呂での儀式は古くから知られている。『過ぎし年月の物語』(11-12世紀)には、オレーグが、コンスタチノープルで、movьを実施する権利をルーシのために得たこと、オルガ(オリガ)大公夫人が彼女の敵対者たちを欺いて、婚姻の際の蒸し風呂の儀式の代わりに、葬礼の際の儀式を行ったことが書かれている。古代ロシア語のmovьは北ヨーロッパで広まっていた、蒸し風呂において植物を使い行われ、参加者を死者と魂の世界と交流させる、異教の儀式を指していた。「蒸すこと」(つまり「汗を出すこと」)を内容とする儀式、および植物を焦がすことで得られる煙の吸引は、多くの古代社会において行われていた。古代ルーシも例外ではなかったのだ。教会と蒸し風呂は、人間の宗教的活動の、互いに補完しあう二つの中心であった。
著者
ミハイロバ ユリア
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.1-32, 2003-05-31

この論文は、ロシア人の地理的意識、ナショナル・アイデンティティと、「他者」としての日本のイメージとの繋がりを取り上げる。そのため、露日戦争期と1930年代ロシア・ソ連の民衆向けの新聞や雑誌の記事、風刺画、民衆版画などを分析する。ロシア・ソ連人が持っていた日本についてのイメージは戦争の勝敗だけではなく、ロシア人の地理的意識における極東の位置も関わっていたことを論ずる。露日戦争期のプロパガンダは、戦争は土地の征服を狙う争いではなく、人種的な戦争であるということを主張した。日本人をさまざまに苛め、誹謗し、ロシアの勝利を予言した。けれども、普通の人々はこの戦争の目的が分からず、戦争が行われていた満州及び隣の沿海州等の地域も、ロシア人の地理的意識にまだ入っていなかったので、兵士は戦争に熱意を感じなかった。したがって、露日戦争期の対日プロパガンダは説得力を持たなかった。露日戦争におけるロシアの失敗は、ロシア社会にショックを与えたにもかかわらず、日本に対しては嫌悪観をかならずしももたらさなかったように思う。当時、ロシアの国民の怒りは日本よりも自国の指導者に向かい、新しいナショナル・アイデンティティへの探究に道を開いた。1930年代にソ連では急速な工業化による「東方への大移動期」がはじまった。国民の熱狂的な労働をもっと刺激するために、政府および共産党は、ソ連が四方を敵に囲まれている、その敵から母国を防衛しなければならないと愛国主義を懸命に宣伝するようになった。極東における日本との国境衝突は、敵対的日本のイメージの創造にとって好都合であった。ソ連的プロパガンダはロシア人の血にしみつき、かれらの労働によってまさに盛んになった極東地域を日本から守らなければならないと思い込まされた。国家の唱えた愛国主義が、あるレベルにおいて人々が持っている自国に対する愛国心と一致したので、その宣伝は日本のマイナスなイメージの構築に成功したのである。したがって敵としての日本についてのイメージは、ソ連国家のナショナル・アイデンティティの形成にかなり貢献したといえよう。
著者
メーリニコヴァ イリーナ
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.57-81, 2003-05-31

筆者の知る限りでは、日本をテーマとする1935-1999年に撮影されたソビエト・ロシア映画35本の中に、日本と日本人が軍事上の敵として登場するフィルムが18本ある。そのうち半分の9本は1935年から1939年までの短期間に公開されており、いわゆる『防衛映画』のジャンルに属している。『防衛映画』とは国防に必要な軍事力強化のプロパガンダが目的で作られた劇映画であった。本論文は、1930年代のソビエト『防衛映画』における日本人のイメージについて考察したはじめての読みである。最初に9本の映画のあらすじをまとめて、次にそれらの歴史や政治的背景を概観する。取り上げた作品の中にはアレクサンドル・ドブジェンコの『アエログラード』、ワシリエフ兄弟の『オロチャエフスクの日々』などの有名な作品が含まれている。敵国としての日本及び軍事的対立者としての日本人のイメージについて調べつつ、映画における空間のイメージ、そして主人公である日本人の心理描写を分析している。ソビエト映画において日本人のイメージを構成している階級(class)と民族性の相関関係を考察すると、敵対階級の代表者としての日本人の描写は、民族的人種的に異質な日本人像の描写に比べてより重要な役割を果たしていると結論できる。ソビエト映画の描写において、日本人のイメージが「人民の敵」-スターリン政権にとってあらゆる仮想敵の象徴であった-のイメージと重なっていることを論じている。
著者
エブベキーロフ セルヴェル
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.103-121, 2003-05-31

本講演で取り上げるイスマイル・ガスプリンスキイはロシア軍士官ムスタブァ・ガスプリンスキイの長男として1851年に生まれ、クリミア戦争期に一家は挙げてクリミアの古都バフチサライに移住し、1914年に死去するまでクリミア・タタールの文化復興運動に身を捧げた人物として知られる。彼が生涯を捧げた教育啓蒙活動はクリミア・タタールの歴史と文化の復興にとどまらず、足跡は広く中央アジア各地域にまで及び、後世"汎トルコ主義の父"と呼ばれるようになった。彼の受けた教育には19世紀中葉のロシア・インテリゲンツィアの教育啓蒙思想が色濃く反映しており、それを背景として帝政ロシア支配下のトルコ系諸民族の覚醒運動に影響を行使したといわれる。クリミア・タタールの祖国クリミア汗国はチンギスハーンの直系として金帳汗国の内訌から分裂して誕生した一汗国として1500年にバフチサライに首都を定め、学芸の拠点として大学を設立するなど繁栄を極めた。300年に及ぶ繁栄を謳歌したクリミア汗国は北方のリトアニア大公国やモスクワ大公国(のちのロシア帝国)へ略奪遠征を繰り返すなど、スラヴ諸民族の視点からは悪い評価が下されがちである。しかし、エカテリーナニ世により1783年4月に帝政ロシアに併合されるまでは中央アジアとヨーロッパをつなぐ文化交流の橋渡しの役割を演じ、その歴史的意義は無視されてはならない。クリミア汗国は金帳汗国の支配民族として黒海北岸に伝統的な遊牧生活するノガイ系のほか、海岸部には往時のギリシア(ビザンツ)系、ジュノヴァ系などのヨーロッパ系住民が居住し、首都バフチサライ周辺にはユダヤ系一派カライム人が居住するなど多民族社会を構成していた。チンギスカーンの直系たるクリミア汗はイスラム世界における政治的権威は高く、黒海対岸に勢力を拡大したオスマン帝国のスルタンもクリミア汗を格別の待遇をもって接したといわれる。高い学識と教養を備えたクリミア・タタール出身者はオスマン帝国社会でも重用され、幅広く活躍したといわれる。汗国の滅亡後クリミア・タタールの多くはオスマン帝国領内に散っていったが、故地バフチサライに残った人たちの間から文化復興の機運が芽生えたのは19世紀末になってからである。その中心人物がイスマイル・ガスプリンスキイであった。初等教育をバフチサライのズィンデルルィ神学校で学び、10歳のときにシンフェロポリのロシア・ギムナジウムで学んだあと、父の意向によりボロネジの幼年学校へ、ついでモスクワの士官学校へ進学した。しかし軍務を好まなかったガスプリンスキイは1867年密かにオデッサへ向かい、そこからイスタンブールへの密航を企てるが、旅券不所持ゆえに乗船できず、バフチサライへ帰郷した。バフチサライでは上記ズィンヂルルィ神学校のロシア語教師に任用され、精力的にロシア・インテリゲンツィアの社会思想を摂取した。並行して生徒向けにトルコ語の講習も自主的にはじめた。まもなくガスプリンスキイはタタール語の文法規則にアラビア語表記を当てはめることの不都合さを感じ、やがて神学校の旧弊な教育方法に批判的になり、その態度が神学校の保守派の反感を招き、辞職を余儀なくされた。1872年、ガスプリンスキイはヨーロッパ旅行へ出かけ、パリに落ち着いた。3年間のパリ滞在はその後の生涯にとって大きな意味をもった。というのもイヴァン・ツルゲーネフの秘書となる僥倖に恵まれ、ツルゲーネフの助言により彼はフランス語を習得して翻訳業に専念し、西欧文化を徹底的に学び、後の偉大な啓蒙家へ転身する足がかりをつかんだのである。西欧文明の摂取こそが後進的諸民族の開化の道筋と確信するに至ったガスプリンスキイは、帰国の途中イスタンブールを訪れ、冊子『西欧文化の概観』を発表し、「西欧文化を内部から学ばずしてわれわれは何も理解できない」と述べ、ムスリムの伝続社会を厳しく批判した。1875年冬、クリミアへ戻ったガスプリンスキイは、まずオスマン・トルコ社会の状況をつぶさに検討し、ムスリム社会の革新の方策を模索した。1879年、ガスプリンスキイはバフチサライ市長に就任する。市長職にあった4年間の最大の課題は民衆の啓蒙教化であった。啓蒙教化を図るには、何よりも誰も手にできる雑誌の刊行が実現されなくてはならなかった。ロシア政府にトルコ語による新聞雑誌の印刷を許可してもらおうと志し、1881年、シンフェロポリの印刷所で偽名の小冊子「ロシアのムスリム」を刊行し、「ロシアの同胞よ!われわれには学問と文化が必要だ。助けて欲しい」と書いている。その甲斐あってトルコ語による出版活動の許可が下り、1883年4月10日からのちにガスプリンスキイの名を高めることになる情宣誌『翻訳』を発刊するに至った。これはロシア語とトルコ語の併用であった。当初320部のみであった『翻訳』詰は、カフカス、カザン、中央アジア、シベリア、オスマン帝国領内、ルーマニア、ブルガリア各地に配布され、15,000〜20,000部までに発行部数を拡大した。ロシア帝国領内でも『翻訳』誌や彼の啓蒙活動は東洋学の大御所バルトリド等の高い評価を得、またペテルブルグの『イスラム世界』誌に紹介されている。啓蒙活動の一環としてガスプリンスキイは20世紀に入り、インドのデリー大学で講演したのを皮切りに、1908年にはエジプトでアラビア語による『覚醒』誌を発行するなど1914年に没するまで精力的な啓蒙活動を続け、中央アジアのトルコ系諸民族のあいだに強い影響を及ぼした。しかし、こうしたガスプリンスキイの輝かしい啓蒙活動はソヴィエト政権下では否定的な扱いを受けた。とくにスターリン体制下では「軍事的封建的帝国主義の鼓吹者」、「タタール・ブルジョアジーのイデオローグ」といったレッテル張りがなされ、「汎トルコ主義者」、「汎イスラム主義者」、「反動家」と規定されるなど歴史から抹殺される運命をたどった。1944年のクリミア・タタールの中央アジア追放後は文献に僅かに名を残すのみとなった。1970年代にクリミア・タタールの名誉回復が行われてから徐々にタブーが取り除かれ、1987年に雑誌『東方の星』に掲載された論文が肯定的な評価を与えた最初である。1991年3月、彼の生誕140年記念を機にシンフェロポリで国際会議が開催され、旧ソ連や東欧諸国をはじめ西欧諸国の東洋学者が一堂に会してガスプリンスキイの顕彰作業がはじまった。ガスプリンスキイの見直し作業は今後の課題である。クリミア・タタールの歴史と文化の複興、トルコ系諸民族の民族復興運動は、ガスプリンスキイの再評価と連動している。
著者
小山 哲
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-20, 2008-03-30

現在、ラテン語は日常生活で用いられる言語ではない。にもかかわらず、ポーランドでは、「ラテン語文化」(latinitas)を基盤とする文化圏に帰属しているという感覚は、今日なお根強いものがある。この帰属意識は、近世(16〜18世紀)のポーランド・リトアニア共和国の文化的な遺産に深く根ざしたものである。本稿では、近年の社会史・政治文化史研究の成果をふまえながら、16・17世紀のポーランド・リトアニアにおける「生きた言語」としてのラテン語の文化的・社会的機能について再考した。近世のポーランド・リトアニアに滞在した外国人は、ポーランドの貴族層(シュラフタ)が幼少時からラテン語を熱心に学んでいると記している。じっさい、17世紀初頭のある少年貴族の肖像画には、彼が学んだラテン語の書物(キケロ、セネカ、ウェルギリウス、オウイデイウスなど)が描きこまれている。貴族層のラテン語熱は、16世紀の人文主義の興隆を背景とする比較的新しい現象であった。16世紀から17世紀前半にかけて、シュラフタは子弟を西欧に留学させ、古典語と修辞学を学ばせた。また、16世紀後半から共和国各地に創設されたイエズス会の学校は、ラテン語の実践的な運用能力を高める教育を行ない、人気を博した。多様な言語集団からなるポーランド・リトアニア共和国では、ラテン語はポーランド語と並ぶ重要な公用語であった。ラテン語の知識は、共和国の支配身分であるシュラフタにとって、宮廷・議会・法廷などで活動するために不可欠の教養であった。また、古代ローマの共和政を理想とするシュラフタの国家観も、ラテン語文化との一体感を強める要因となった。シュラフタは、演説や書簡でしばしばラテン語とポーランド語を混用する独特な文体を用いた。ラテン語の挿入は、彼らの発言の「貴族らしさ」を高める効果をもっていた。当時の史料には下位身分のあいたでもラテン語が通用したという証言があるが、彼らのラテン語は一種の「ピジン語」であったと考えられる。また、ラテン語は、女性にはふさわしくない言語であるとみなされていた。このように、多民族・多言語国家としての共和国において、ラテン語の知識は、支配身分であるシュラフタを文化的に統合する要素の1つであった。他方で、ラテン語は、貴族男性を女性や下位身分の人びとから区分する差異化のコードとしても機能した。ラテン語はまた、共和国の対外的なコミュニケーション言語として重要な役割をはたすと同時に、東方正教圏に人文主義が波及するさいの媒介語ともなった。近世ヨーロッパの東部辺境においてラテン語が担っている多様な機能は、近代的な国民言語が成立する以前の社会における古典語の役割、ヴァナキュラーな言語と古典語の関係、等の問題について、より広範な比較史的検討を促している。
著者
スミルノワ T.V.
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.57-82, 2007-03-30

今日かなり普及している比較的新しい学に言語文化学がある。この学にたずさわる研究者たちは先例現象理論を構築したが、これはロシア的コトバ=ヒトの特徴づけにも大いに役立っている。先例現象という領域には、先例テクストや先例状況、先例言説、そして先例人名が入る。先例人名(PI)とは、「個人名で、1)先例として広く流布しているテクストに関係する(たとえばオブローモフ、タラス・ブーリバ)か、2)当該母語使用者に広く知られている状況と結びつき、よく先例として引かれる名(たとえば、イワン・スサーニン、コロンブス)、また特定の価値をはかる基準となるべきそれなりの全体性を指し示す象徴名(モーツァルト、ロモノーソフ)のことである」。「それは、使用される際に、当該PIのもつ弁別的諸特徴の集まり全体への訴えかけが生じる、ある種の複合記号である。それはひとつ、またはいくつかの要素からなりたちうるが、あくまでもひとつの概念を意味するものである」(クラースヌィフV.V.「他者」の中の「身内」:神話か現実か、モスクワ、ITDGK『グノシス』、2003, p.197-198)。PIはロシア連邦国民によって活発に使用されているが、それはロシア文化も東方の文化がそうであるように、高度に文脈的なものに属しており、コミュニケーション主体間で交わされる情報の大部分がコンテクスト(内的な、あるいは外的な)のレベルに存在するためである。だが背景を共有しないものにとってPIを判別し理解することは、ふつうは辞書にも載っていなし解読もできないので、いちじるしく困難である。PIの意義は、異文化コミュニケーション実現のために必要なだけでなく、国民性の理解のための鍵でもある。なぜならPIは、その母語話者の心的特性や国民性ときわめて緊密に結びつき、情報の選択とその提示方法に影響を与えている、文化=コトバコードの重要な要素だからである。PIは種々のタイプのテクストで、いろいろな立場で使用される。われわれはメディア・テクストの見出しにおけるPI使用の特質を検討することが重要だと考える。新聞テクストでは見出しは第一級の役割を担う。一面で言えば見出しは、記事に対する読者の注意を惹きつける機能を果たしている。他面、見出は、まさにそこから読解が始まるのであり、情報提供の音叉となって記事内容の主題と記述の調子を規定している。現代の見出しは「意味緊張の強化を指向している。それは一風変わった形態に走りがちで、評価の押しつけ、ことさらな表現、宣伝調に傾き、あらかじめ何が語られるかを示しつつ、新聞が扱う題材の受容が一定の方向でなされるよう調子を整えながら、報道するのである」。現代の見出しがこうした特徴をもつとするなら、新聞見出しとは、記事を理解し情報を予測する、また書かれる内容への筆者自身の態度がいかなるものかを判定する鍵である、と結論づけることができよう。新聞・評論的文体には報道と感化という、ふたつの重要な機能がある。しかし「情報の受け手を感化するためには、まずその注意を惹きつけなければならず」、その点はジャーナリストが種々の手法を駆使して努めているところであり、先例現象の利用もその内に入るのである。マスメディア言語の研究者は、今日の「評論的ディスコースでは読者の注目をひく個性的な見出しの量が急激に増えており」、いろいろのタイプのPIが、さらにはPIの変形がますます多く現れるようになったと指摘する。したがって新聞・評論的テクストを読む過程はコミュニケーションの特殊な種類であり、そこで前面に出てくるのは、情報の受容というよりもむしろ筆者の情報に対する態度の理解である。筆者が自分の書いた情報に対してとる態度の精髄が記事の見出しなのである。そうであるなら、コミュニケーションを効果的に行うための必須の条件は、先例現象が、事実に対する特定の見方を示唆する評価を含んでいるかもしれないということ、出来事に向けた筆者の視角を考えに入れるならしかるべき解釈が可能になる、ということを認識しておくことである。ロシア連邦の新聞は、見出しが直接出来事に関連するような場合、じかに名指しすることをできるだけ避けようとする。そしてこのことは一方では筆者が自分の立場をより正確に表明する助けになっているのだが、他方、外国人にとっては、PIを含めた先例現象がどんどん見出しの素材になるわけで、それだけ複雑さをも増す。メディア・テクストの見出しで使われているPIでいうと、たとえば、スチョーパおじさんとか、プローニン少佐、マザイ爺、ガヴロシ、ミトロファン、フィリーポック、ムム、サヴラスカ、ダンコ、モイドディル、ゴプセク、ヴァニカ・ジューコフなどは、ロシア連邦国民なら文学作品などを通して事実上全員が知っているために、すっかり流布している。ちなみにPIとなったこれらの主人公たちは人気児童文学の登場人物で、両親とか就学前児童施設の養育師たちが子供たちに読んで聞かせるか、小学校の文学カリキュラムで教育されたものである。例外は推理ものの主人公プローニン少佐で、アニメ『便器から覗くプローニン少佐の目』に出てくる流行の言い回しの中でそのイメージがクリシェとして定着した。これは何でもお見通しのKGBが持つ目のパロディーなのだ。PIにはほかにも、アフォーニャとか、ヴェレシャーギン、シュティルリツ、ヂェードチキンなどのように、映画のおかげでわたしたちの意識に焼き付けられたものもある。だがPIがなんといっても一番有名になるのは、文学と映画の二つの出典を同時にもつ場合で、ベゼンチューク、オスタプ・ベンデル、コレイコ、ヴァシュキ(ニュー・ヴァシェキ)、ヴォロナの町、パニコフスキー、シューラ・バラガーノフ、シュミット中尉の子供たち、角と蹄、人食いエロチカ、(郵便配達夫の)ペーチキン、アイボリート、アニースキン、ドゥレマル、雄猫バジリオ、ロビン・フット、ラスコーリニコフ、ソーネチカ・マルメラードヴァ、チーチコフ、フレスタコフ、ミュンフハウゼン、アレクセイ・メレシエフ、ドン・フアン、カサノヴァ、マウグリ、SHKID共和国、シンデレラ、ロビンソン・クルーソ、イリヤ・ムーロメツ、ミクラ・セリヤニノヴィチ、ガリヴァー、おやゆび姫、オブローモフ、シュトリツ、チムール、レフシャ、ドンキホーテ、ロシナンテ、コローボチカ、プリューシキン、パフカ・コルチャーギン、マニーロフ、ハムレット、キバリチシ小僧、プロヒシ小僧、カシュイ、バーバ・ヤガーなどがそれである。このほかにも、カラツューパ、ルイセンコ、ミチューリン、パヴリク・モローゾフ、ツシマ、ホディンカ、クリービン、スタハーノフ、ロモノーソフ、アレクサンドル・マトロソフ、アレクセイ・マレシエフ、イワン・スサーニンなど、ロシア連邦やソ連の科学や歴史、実在人物の伝記事実をもとにできあがった作り話がPIの出典となったものがある。ヘロストラテス、ユダ、バビロン、ペナーテース、トロイ、テルモピュライ、ヘラクレス、シシュフォス、ソロモン、デモステネス、キケロなど、ロシア連邦国民に知られている世界史や神話上の人物たちもPIの主人公として現れる。本論文ではメディア・テクストの見出しにおけるPIの使用を分析して、その局面での先例現象使用の特徴を反映させるような辞書を作ることが不可欠であることを論証し、言語文化学的辞書用の見出し語の事例をあげている。
著者
越野 剛
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.43-56, 2001-03-31

ドストエフスキーの作品における人間の心理描写は、フロイト流の精神分析の視点からアプローチされることが多い。しかし作家と同時代の精神医学が創作に与えた影響の方が歴史的には重要である。F.A.メスメルを創始者とする動物磁気説(後の催眠術)は、19世紀にすでに人間の無意識の現象を発見しており、ロマン派の文学や自然哲学に大きな影響を与えた。ドストエフスキーはK.G.カールスの無意識論やホフマン、バルザック、グレチ、V.オドーエフスキー等の文学作品を通じてメスメルの説を知っていた。当時の文学作品に特徴的な催眠術のモチーフは、催眠状態における幻覚や無意識の行為、そして視線の持つ磁気的な力のふたつであった。その点でドストエフスキーの初期作品のひとつ、『主婦』は分析の対象として最もふさわしい。『主婦』のプロットの中心は、3人の主要登場人物、オルドゥイノフ、カテリーナ、ムーリンの間の視線による心理的闘争である。中でもムーリンは邪悪な眼差しの描写で際立っている。ムーリンが催眠術師の役割を担っているとするなら、無意識のままに行為し幻覚を見るオルドゥイノフは催眠をかけられやすいタイプといえる。ただし3 人の力関係は一方的なものではなく、しばしば逆転し、互いに催眠術をかけ合っていると見なすことができる。同じような構図は『白痴』のムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージンの関係にも当てはまる。19世紀の中頃、催眠術はオカルト的な傾向を批判され、医学者からは敬遠された。ドストエフスキーは『主婦』や『白痴』の中で、そのモチーフは明かであるにもかかわらず、催眠術の用語を直接には使用していない。一方で『分身』や『虐げられた人々』ではそうした言葉が必ずコミカルな状況で用いられ、テキストにロマン主義文学のパロディーという性格を与えている。ドストエフスキーは催眠術(動物磁気説)のテーマを慎重に扱いつつも、実証主義的・唯物論的な同時代の医学では見逃されるような人間の深層心理を描写する手段として重視していたのである。
著者
山路 明日太
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-22, 2011-03-31

レールモントフ作品には馬がしばしば登場する。ただしそこでは、トルストイ『ホルストメール』のように馬の視点から事態が描写されるわけでもなければ、プーシキン「西スラヴ人の歌』のように馬が物語るわけでもない。また語り手が馬に極端な感情移入をしめすようなこともない。そうでありながらレールモントフの馬は、詩人の目からみても主人公たちの目からみても、「友」であり「同志」である。このようにレールモントフ作品の馬は、人間との関係で微妙な距離感をたもっている。そうした距離感は死と生の両面におけるひとと馬との対照的描写から考察することができる。レールモントフは人間の死の瞬間をえがくにあたり魂のうごきにことさら注目しているが、こうした描写は馬にたいしてはみられない。そのかわり馬は死にいたるまでの勇敢な働きが強調される。他方、死そのものはあっさりと述べられるだけで、死にゆく様子に注目した記述はみられない(cf,『アンナ・カレーニナ』の競馬場での馬の死、『罪と罰』のラスコーリニコフの夢における馬の撲殺場面など)。以上から、レールモントフは馬に魂があるとはかんがえていなかったと類推できる。だが死体としては人間も馬も魂のない「モノ」であり、両者は類似の扱いかたがなされる。死体はほかの動物に喰われる様子が生々しくえがかれ、自然の法則にしたがい分解されていく。そうした死体の情景描写において馬と人間は対照しうる存在となるのだ。じっさい『アズライル』冒頭では馬の死体が人間存在の死を象徴する。また「公爵令嬢メリー」では主人公が人間の死体と愛馬の死体にたいし類似の反応をしめしており、そのことによって小説の構成上ふたつのプロットが結びつけられている。生の存在としての馬は自由、幸福、故郷を象徴し、乗馬は主人公たちに喜びをもたらす。ときに馬は女性と対照され、等価で取引されることもある。そんな両者の対等関係はレールモントフ作品においてカフカス民族の社会的な生活背景をなすものとしてえがかれている。馬は女性との対照的描写によって生活背景を形づくる機能を果たしているのだ(例えば、『バストゥンジ村』のアクブラートやムラー、『現代の英雄』のカズビーチなど)。いっぽうおなじ女性と馬との等価的な比喩や交換が、当時のロシア貴族の一典型にとって行動の契機になることもある。『現代の英雄』のペチョーリンはカフカス民族の生活背景である女性と馬との等価的比較を利用し、みずからの欲望を満たしている。そこでは馬の形象が主人公の性格を形づくる機能を果たしているといえる。このように馬の表象はレールモントフ作品を読み解くための不可欠な要素となっている。
著者
ポダルコ ピョートル
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.21-42, 2001-03-31

革命直前、帝政ロシア在日公館は、東京の大使館をはじめ、日本本土(内地)や朝鮮半島、遠東半島に10館の総領事館・領事館があり、その外交官数は約30人だった。1917年10月の社会主義革命直後、新しいボリシエビキ政府の外務大臣に当たる「外務人民委員」トロツキーの、1917年11月26日付(新暦の12月9日)の命令により、ソビエト政権を認めなかった元帝政ロシアの外交官たちは、全員退職させられた。一方、海外諸国で勤めていた外交官たちは、トロツキーの命令に反対し、フランスのパリで集会を行い、元駐ローマロシア大使ミハイル・ギルスを議長とする「大使会議」を設立した。それ以降この大使会議は、海外諸国に在住した元帝政ロシア外交官にとり、彼らの活動の一致をはかるコーディネータ機関になった。駐東京ロシア大使館のスタッフも大使会議との定期的連絡を維持していた。ひきつづき7年間(1918-1924)にわたって、駐日ロシア大使館(「旧大使館」)は、在日ロシア人の代表的な機関であった。例えば、最初から、来日したロシア人亡命者に対して最も面倒をみたのは、本国において正式にロシアを代表するロシア外交官であった。特に、駐日ロシア大使館の経済的・政治的な状況は、他国における帝政ロシアの外交機関と異なっていた。大使館の財政は、第一次世界大戦中に行った軍需発注金をはじめ、義和団乱後の賠償金等からなっていた。また、駐日ロシア大使館のスタッフは、自分たちも亡命生活を送りながらソビエト政権に反対する立場に立っており、極東の各地に居留するロシア人への財政支援の執行をした。外交官は、日本の当局からもロシアの公式の代表的機関として以前通り認められていたので、このような状態にしたがって自分の使命を果たし続けていた。その「政府無しの7年間」にわたって、彼らはシベリアで続いていた反ソビエト闘争を支持したり、シベリア・極東の各地に作られた政府に対する援助を行ったりしたが、日ソ国交樹立の結果、ついに自分たちの活動に終止符を打たざるをえなかった。その直前まで代理大使は、在日ロシア人の地位(「無国籍」)等について、日本政府との話合いを行っていた。1924年末、各領事、副領事、その他の職員は皆3 ヶ月分の給料をもらい、退職させられた。1925年8月4日、日ソ両政府は、大使館や領事館を両国に開設することを決定した。ところが元の外交官は、「新政権」(ソビエト政権)に就職することを希望せず、民間人としての生活を選んだという。
著者
荻野 晃
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.59-72, 159-160, 2002-03-31

このペーパーの目的は、1956年11月のハンガリー事件の後、社会主義労働者党第一書記カーダール・ヤーノシュがどのように党内基盤を固めたかを探ることにある。冷戦終結後にハンガリーの公文書が公開されると、ハンガリー事件当時の首相ナジ・イムレの裁判が、戦後史の見直しにおける重要な争点となった。ハンガリー事件の最中に一党支配の放棄、ハンガリーのワルシャワ条約機構脱退と中立化を宣言したナジは、最終的に1958年6月に処刑された。筆者は近年の研究動向を踏まえながら、ナジ問題とカーダールを中心とする社会主義労働者党中央委員会の発足との結びつきを検証する。56年11月4日のソ連のハンガリーへの軍事介入の後、カーダールが政権を握った。成立当初、カーダール政権は困難な状局に直面した。軍事介入の直後、ナジと彼の同僚たちがブダペシュトのユーゴスラヴィア大使館に避難し、カーダール政権への支持を拒否したのである。ナジの処遇は、社会主義労働者党内部における国内政治の路線をめぐる論争の争点の一つになった。ソ連型社会主義制度の改革を意図する党内の穏健派は、国内の安定化をはかるためにナジや反体制派との妥協を意図した。それに対して、早急に一党支配体制の再建をはかるカーダールを含めた強硬派には、秩序の回復のために反体制派に対して強硬姿勢でのぞむ用意があった。実際に、カーダールはソ連によるナジの身柄拘束に協力した。ナジが社会主義労働者党との妥協を拒否した時、カーダールと彼の協力者たちは、ソ連の圧力にかかわりなく、自発的にナジを反革命の罪で起訴する方針を固めた。カーダール自身、国内改革の必要性を認識していた。しかし、カーダールはナジに強硬姿勢を取ることで、改革よりも社会主義体制を強化することを優先させた。カーダールはナジを葬り去ることなしに、一党支配体制を堅持した彼自身の穏健な改革路線を確立できないと判断した。さらに、ナジの起訴の決定後、ナジとの妥協に固執した穏健派は、党中央委員会から排除された。57年4月の社会主義労働者党暫定執行委員会(政治局)によるナジの起訴の決定は、ソ連の軍事介入後のハンガリーにおける社会主義体制の再建とカーダールのリーダーシップの確立へ向けた重要なターニング・ポイントになった。カーダールがナジの急進的な改革路線との連続性を絶った時、カーダール時代が始まったのである。
著者
越野,剛
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies
巻号頁・発行日
vol.21, 2001-03-31

ドストエフスキーの作品における人間の心理描写は、フロイト流の精神分析の視点からアプローチされることが多い。しかし作家と同時代の精神医学が創作に与えた影響の方が歴史的には重要である。F.A.メスメルを創始者とする動物磁気説(後の催眠術)は、19世紀にすでに人間の無意識の現象を発見しており、ロマン派の文学や自然哲学に大きな影響を与えた。ドストエフスキーはK.G.カールスの無意識論やホフマン、バルザック、グレチ、V.オドーエフスキー等の文学作品を通じてメスメルの説を知っていた。当時の文学作品に特徴的な催眠術のモチーフは、催眠状態における幻覚や無意識の行為、そして視線の持つ磁気的な力のふたつであった。その点でドストエフスキーの初期作品のひとつ、『主婦』は分析の対象として最もふさわしい。『主婦』のプロットの中心は、3人の主要登場人物、オルドゥイノフ、カテリーナ、ムーリンの間の視線による心理的闘争である。中でもムーリンは邪悪な眼差しの描写で際立っている。ムーリンが催眠術師の役割を担っているとするなら、無意識のままに行為し幻覚を見るオルドゥイノフは催眠をかけられやすいタイプといえる。ただし3 人の力関係は一方的なものではなく、しばしば逆転し、互いに催眠術をかけ合っていると見なすことができる。同じような構図は『白痴』のムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージンの関係にも当てはまる。19世紀の中頃、催眠術はオカルト的な傾向を批判され、医学者からは敬遠された。ドストエフスキーは『主婦』や『白痴』の中で、そのモチーフは明かであるにもかかわらず、催眠術の用語を直接には使用していない。一方で『分身』や『虐げられた人々』ではそうした言葉が必ずコミカルな状況で用いられ、テキストにロマン主義文学のパロディーという性格を与えている。ドストエフスキーは催眠術(動物磁気説)のテーマを慎重に扱いつつも、実証主義的・唯物論的な同時代の医学では見逃されるような人間の深層心理を描写する手段として重視していたのである。
著者
鴻野 わか菜
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.83-102, 2003-05-31

アンドレイ・ベールイの『銀の鳩』の<酩酊>のトポス(=野、居酒屋)を、文学・文化的コンテクストにおいて検討することは、作品の主題、他の文学作品との影響関係を明確にするだけでなく、作品の根底にある世界観が同時代の思潮にどのように村峙させられているかを示唆する。第一に<野>の描写を、『銀の鳩』ではワインがセクトの奥義のメタファーであることを念頭に考察する。<野>は、物語の冒頭では「空ろな空間」だが、主人公ダリヤリスキーがセクトに眩惑されると同時に「夕焼けのワイン」で満たされ、彼がセクトに幻滅すると同時に「空ろな灰色の野」に戻る。<野>とダリヤリスキーの精神状態をパラレルに措くことで、作者はダリヤリスキーの悲劇と死をロシアの野に投影している。<野>は、チュッチェフ、メレシコフスキー、ベールイ自身が、ロシア的イデー創生の場として夢みたトポスであり、他ならぬこの場に終末の色彩を付与することによって、古い理念の失墜が暗示される。また<野の酩酊>の描写は、ベールイが傾倒したアルゴナウタイ神話やオカルトの文脈で理解することもできる。第二に<村の居酒屋>の描写を、ロシア文学で措かれる酒場のイメージと比較することにより、『銀の鳩』では<居酒屋>が「主人公の運命を決定する場所」というドストエフスキー的な酒場の要素と、「酩酊してもう一つの世界をかいまみる」というブロークの『見知らぬ女』的要素を持つことを示す。しかしブロークの詩では、酒場は酩酊した主人公=夢想者が夢の世界と現実世界を行き来するトポスであるのに対し、『銀の鳩』の<居酒屋>は間接的に<セクトへの扉>として機能している。粗野で地獄絵のような<居酒屋>の描写は、ブロークの措く高貴な神秘的酩酊に村するアイロニーでもあり、あらゆる<酩酊>、すなわち<神話>信仰全般(ソフィア崇拝、新興宗教、当時文壇に蔓延していたオカルト主義等)に対する痛烈な批判として読むことができる。
著者
柴田 恭子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.35-80, 2011-03-31

2001年春に発足し、2007年に議席を失った民族主義政党、ポーランド家族連盟(Liga Polskich Rodzin;LPR)は、戦前のポーランドにおいて勢力を誇った社会運動および政党である「国民民主主義(Narodowa Demokracja;ND)」党の、現代における直接の政治的後継者である。戦間期ポーランドの独立運動を先導し、また民族の同質化・均質化を目指したことで知られるこの国民民主主義党は、ポーランド民族主義の伝統における一系譜であり、今日、欧州連合加盟に伴う政治・社会変動過程の中でLPRという形をとって再興され、2006年から連立政権の一端を担うに至ったのである。EUの理念および運営への真っ向からの反対を鮮明にしたLPRは、立法過程、またメディアを含めた公共の場において、少数民族、移民、性的少数者、女性等「他者」を排除する言葉を発し続けた。本稿は、そのうち「民族的」他者への差別言説に焦点を当て、次の問いを念頭に分析を行う。1)LPRは、現代ポーランドが置かれた社会状況・地政学的位置に対応するため、過去の民族主義イデオロギーを変容させたか。2)政界進出の際、同党は差別の対象となる人々、また差別に用いる言語を変えているか。3)現代ヨーロッパの社会的文脈における、LPRの差別言説の特徴とは何か。分析手法には、言語・社会・権力(支配)間の相互関係を考察する「批判的言説分析」(critical discourse analysis;CDA)、特にルース・ヴォダックの提唱する「歴史的言説分析」(discourse-historical approach)の方法を採用し、社会史的な文脈を踏まえた差別言語の考察を試みる。分析の結果、以下のことが明らかとなる。まず、研究枠の前期(2001年4月-2004年6月)において、LPR政治家は、在米ユダヤ系ポーランド人、J.T.グロスによる『隣人』の出版を契機に、主にユダヤ人を対象とする激しい批判を展開した。過去にポーランド民族に害を及ぼし、さらにポーランドの名を損なう「忌むべき存在」、つまり歴史的に根付く民族の他者としてユダヤ人を差別したのである。後期(2004年7月-2007年10月)では対照的に、この反ユダヤ主義が公の場で強く否定される。LPRの政治家は、ポーランド人の少数民族に対する寛容さを主張しながら、世論を反映し、戦前における国民民主主義党の反ユダヤ主義は批判されるべきであると認めた。一方で、EU加盟に伴い流入が予測されるイスラム圏からの移民を、その生殖・イデオロギー上の潜在力をもってポーランド人を脅かす存在と規定するようになった。また同党は一貫してポーランドにおける少数民族・エスニシティの権利を否定し続け、国会討論では、民族の「秩序」の名の下に、少数派の存在を取るに足らぬものと等閑視した。政治の舞台で生き残るため、LPRは国民民主主義党のイデオロギーを修正・補足しつつ、「ポーランド民族」にとっての「他者」を差別した。その言説は、ヨーロッパ統合を進める現代ポーランド社会において、幾重にも織りなす「民族」の歴史に育まれた政治文化の、特異な力学の一端を示すものであった。
著者
金子 百合子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.91-119, 2006-03-31

本研究は次の理論仮説および分析装置に基づく。異なる言語(筆者の場合、ロシア語と日本語)のアスペクト意味体系を対照する場合、ある種のアスペクト的意味特徴は多くの言語に共通して表わされるが、その表現の仕方は各言語で異なる可能性があることを考慮する必要がある(普遍性と相対性)。その「異なり方」にアプローチする概念的装置が「意味的優勢素」(Падучева)であり、それは他言語と比較した際の詳細な内容的差別化、発話における高い使用頻度や低い意図性、他言語への翻訳の難しさ等の特徴で際立つ意味(野)に対して用いられる。言い換えれば、意味的優勢素とはある言語が比較的得意とする意味野であると同時に、当該の言語話者にとってはあまりにも身近なために意識されずに用いられている意味野でもある。筆者はロシア語のアスペクト機能意味野において"限界"の概念が意味的優勢素とみなされるとする立場を擁護する(Пертухина)。これはロシア語のアスペクト体系における、限界に関する多様な概念の重要性、その内容的差別化、表現形式の豊富さ(文法レベルでは完了体、語形成レベルでは動作様式、終了指示性による動詞の意味分類)、発話における高い使用頻度と表現の非意図性、高い文法性、翻訳の困難さなどが根拠である。筆者の先行研究では限界の一つのバリアントである開始限界、つまり開始性の表現について、ロシア語におけるその優勢的な実現のあり方を日本語との比較で検討してきた。本論文は筆者の主張をさらに実践的な側面から補強するために新たなデータとして三島由紀夫『金閣寺』とそのロシア語訳(Г. Чхартишвили≪Золотой Храм≫)を取り上げ、両言語において開始表現がどのように用いられているかを具体的に検証する。また、当研究をロシア語以外の言語に拡大する今後の可能性も視野にいれ、参考までに英語訳(I. Morris≪The Temple of the Golden Pavilion≫)を付した。分析の結果は筆者のこれまでの研究結果に矛盾しない。典型的な開始表現(起動的開始性)だけを取り上げても、日本語原作では54回用いられるのみだが、ロシア語訳テキストでは211回を数える。すなわち、ロシア語テキストにおける開始表現は日本語テキストにおけるそれの約4倍となる。この事実は、別の観点から捉えれば、日本語テキストにおけるかなりの数の"非開始表現"がロシア語テキストでは開始表現として解釈、転換されることを示す。このような特徴はロシア語のアスペクト体系が、時間軸上に次々と展開していく諸状況を前にしたとき、各状況から限界点を取り上げて、つまり、そこに優先的に焦点を合わせて、記述する傾向にあることを示唆する。一方、ロシア語の開始表現に取って代わられる日本語の"非開始表現"の多くは位相意味を持たない動詞の単純形式(-ル/-タ形)であるが、その他、-テイク、-テクルなどの移動のプロセスを含意するテ形複合動詞や、「〜(よう)になる」のような、時間的推移の位相というよりも、むしろ質的変化を意味する表現がしばしば用いられる。
著者
木村 崇
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.79-113, 2008-03-30

死生観をめぐる問題は、宗教や人文・社会科学だけでなく、文学も独自の立場で取り扱っている。文学における死生観論は個別の作家や作品を扱う研究において展開されることが多い。そのため日露の文学における死生観の比較を行おうとすれば、体系化された見取り図に、膨大な数にのぼる両国の作家や作品を配置し、縦横あるいは斜めに相互比較をして、そこから総括的結論を導き出す作業が必要となる。本論は紙幅が限られているので、そのような方法を採ることができない。そこで筆者は、死生観が典型的な形で現れる状況をいくつか設定し、同様の状況を描いている日露の作品をランダムに選んで並列させて考察することにした。論文冒頭では、この比較方法をめぐって、その肯定的意義が述べられるが、またその限界についても言及される。「1章 肉親や近親者が死んだとき…」では、有吉佐和子『恍惚の人』、A.ソルジェニーツィン『マトリョーナの家』、ドストエフスキー『罪と罰』などを用いて、葬儀や追善供養などの慣習に見られる生者の戸惑い、疑念について分析し、これらの儀式が死者と対峙する人々にとって、なぜ欠かせない行為なのかを考察する。「2章 死後の世界と死ぬまでの世界」ではまず、「あの世」があるのかないのかをめぐって対立する二つの考え方が、日露の文学作品にどのような形で描かれているかを検討する。もちろん取り上げるべき作品は多数に上るが、本論では、トルストイ『戦争と平和』におけるアンドレイとピエールの対話を別に、ロシアにおける無神論的立場と有神論的立場の代表的な例を考察する。そのうえで正岡子規が『病牀六尺』で到達した観点をアンドレイのそれに対置してみる。また、避けることのできない死をどのようにして受け入れるかという問題を、日露の「水生生物」を主人公にした小作品、すなわち井伏鱒二『山椒魚』とサルティコフ・シェドリンの『スナモグリ』を素材に論じている。さらに、トルストイ『イワン・イリイチの死』をとりあげ、思索者トルストイとは異なる小説家トルストイの「死」へのアプローチについて分析する。「3章『死』に至る様々な道」では、無神論的な確信もなければ有神論的な達観もできない生者の迷いを通して、おそらくは大多数の人々がとるにちがいないこの典型的な態度に現れる死生観の「ゆらぎ」の問題を考察している。中心的に扱った作品は夏目漱石『門』である。また後半では「捕虜となる恥辱」よりも「死」が優先された第2次世界大戦時の日本とソ連の兵士の運命を通じて、「生」が限りなく軽んじられる状況における「生への執着」、「死者への思い」の問題を比較している。扱った作品は大岡昇平の『野火』とブイコフの『死者に痛みはない』である。「結語にかえて」では、このきわめて限られた比較作業から何が見えてきたか、また今後同様な比較研究を行うことによってどのような新知見が得られそうかについて、国際会議での口頭報告などに対する聴衆の反応などを紹介しつつ、言及している。
著者
大木 昭男
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies
巻号頁・発行日
vol.27, pp.83-101, 2007

ロシアの「母子像」と言えば、まず思い浮かべるのはイコンに描かれた「聖母子像」であろう。それは慈愛のシンボルであり、キリスト教的「救い」のイメージと結びついている。ロシア文学に描かれた代表的な母子像としては、ゴーリキイの長編『母』(1906-07)があり、これは社会主義革命のイメージと結びついている。本論文においては、ワレンチン・ラスプーチンの最新作『イワンの娘、イワンの母』(2003)に現れた母子像に注目して、その意味を考えてみた。1993年の「10月騒乱事件」後に書かれた短編『病院にて』(1995)のラストシーンに、修道僧ロマーンの作詞した『聖なるルーシが呼んでいる』という歌の次のような一節が引用されている。「ボン、ボン、ボーン--一体何処、君らロシアの息子たち ボン、ボン、ボーン--なぜに母をば忘れしか? ボン、ボン、ボーン--この響きに合わせ、行進の歩調で ボン、ボン、ボーン--死に歩みしは、君らでなかりしか?!」この歌詞の中の「ロシアの息子たち」と「母」が、中篇『イワンの娘、イワンの母』に21世紀の現代ロシアにおける新しい独特な文学的形象となって登場している。『イワンの娘、イワンの母』に描かれている時代は、ソ連崩壊後の現代、舞台はイルクーツクの町とその近郊。営林署に林務官として長年のあいだ働き、今は年金生活者としてイルクーツク近郊の集落で、菜園を営みながらつましく暮らしているイワン・サヴューリエヴィチ・ラッチコフと、その子供たちと孫たちの三世代にわたる物語であるが、小説のヒロインは、イワン・ラッチコフの長女タマーラ・イワーノヴナであり、彼女は16歳の娘スヴェートカと14歳の息子イワンの母である。「イワン」という極めてポピュラーなロシア人名を小説の題名に反復して使っていることからしても、新たな典型的ロシア人像を描き出そうとする作者の意図が感じられる。小説は5月末にスヴュートカの身にふりかかった災厄から始まり、母親タマーラ・イワーノヴナによる制裁的殺人、そして裁判を経てラーゲリから釈放されて彼女が帰還するまでの4年半の時間的幅をもって描かれている。ラスプーチンは1997年、『我が宣言』という文書を発表し、「ロシアの作家にとって、再びナロードのこだまとなるべき時節が到来した。痛みも、愛も、洞察力も、苦悩の中で刷新された人間も、未曾有の力をもって表現すべき時節が。我々は、我が国が以前には知らなかった諸々の法律の残忍な世界に押し込まれていることが判明した。数百年にわたって、文学は、良心、清廉、善良な心を教えてきた。これなしにはロシアはロシアではなく、文学は文学でない。」と述べ、今、文学に不可欠なものは、「充電池の要素としての意志強固な要素である。」として、「ナロードの意志」を体現する「意志強固な個性」を描くことをロシア人作家たちに呼びかけた。その創作実践のラスーチン自身による最新の成果として、『イワンの娘、イワンの母』は注目すべき作品である。
著者
Bogdan Pavliy Jonathan Lewis
出版者
The Japan Association for Russian and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European Studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.77-97, 2015 (Released:2019-08-09)
参考文献数
48
被引用文献数
1 1

The ongoing controversy regarding Ukraine’s language laws has highlighted the need for empirical research on language use in the country. Election and census results show that the country has two internal north-south borders: an electoral fault line that runs northeast to southwest along the eastern borders of Poltava and Kirovohrad oblasts (regions), and a linguistic border based on self-reported mother tongue that divides Luhansk, Donetsk, and Crimea from the rest of the country.   This article uses data from the microblogging service Twitter to analyze the geography of language in Ukraine. Based on a dataset of 2.4 million geotagged tweets collected over four months in 2015, we found that online language use largely reflects the country’s internal electoral border. In addition, we found widely different rates of bilingual communication: whereas more than half of those using Ukrainian also tweeted in Russian, fewer than one in ten of those using Russian also tweeted in Ukrainian. Use of both languages was higher in urban areas for both groups.
著者
豊川 浩一
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies
巻号頁・発行日
vol.30, pp.45-58, 2010

ピョートル一世からエカチェリーナ二世までの間に、ロシアはヨーロッパの一員となった。それはロシアの知識人に活動の機会を与える啓蒙主義の時代でもあった。しかし、この時代をどのように理解すべきなのかということについては議論がある。17世紀以来の国家システムや社会組織をそのまま引き継いだという議論もあり、また18世紀ヨーロッパの同時代性のなかで開花した時代として理解すべきであるという考えもある。おそらくは、その両方の見方が必要になろう。実際には、18世紀ロシアはどのような時代だったのだろうか。確かにこの時代のロシアは17世紀の諸制度を引き継いでおり、また他方では、ピョートル一世が目指したように、貴族の国家勤務を柱に国家を建設し、秩序ある社会を目指そうとした時代であった。さらに重要なのは、ロシア人自身が「ロシア人」とは何者なのかを認識し、あるいは「ロシア人」を形成する時代でもあった。そこで役割を果たすのがピョートル一世の意を受けてその死後に創設された科学アカデミーの存在と活動である。特に、ロシア各地に派遣することになる遠征隊の役割が重要となる。ユーラシア大陸とアメリカ大陸の間に海峡が存在することを明らかにしたベーリングの遠征隊に代表されるように、各種の遠征隊はロシア=ユーラシア各地の地誌、歴史、自然を調べ上げる作業を行った点で際立っている。これらの遠征隊が行った作業は、ロシアが一体どういう国家であるのかということをロシア人自らが理解するうえで有効であった。ロシアが征服・併合した土地にはロシア人自身の知らない多くの民族が住んでいる。彼らはどういう人々なのか、また彼らに対してどのように対応しなければならないのか、ということを考えさせたのである。南ウラルへの遠征、特にI.K.キリーロフを隊長とするオレンブルク遠征隊は、そのような学術遠征の意味をも兼ね備えた遠征であった。もちろん、最終的な目的は中央アジアさらには遙かインドや中国との交易を念頭においたロシア南東地域の完全な制圧と防衛線の建設である。その遠征の成果の一端はP.I.ルィチコーフによる『オレンブルク県地誌』や『オレンブルク市史』となって現れる。しかし、地方住民-特にバシキール人-はこの遠征の動向に注目し、敏感に反応する。すなわち、イヴァン四世以来、自分たちとロシア国家の関係を契約によって成り立つ自由なものであるという認識を持っていた。しかし、遠征隊の活動は、16世紀以降の進んだロシア人による植民およびそれによる先の契約関係の崩壊、またより明確な形をとって現れる自らの土地の占拠とみなされたのである。そのため、それまでバシキール人が植民運動に対して示したと同様に、この遠征に対してもバシキール人は激しい武装蜂起でもって答えた。これに対して、当局は厳しい態度で臨むことになる。そうした遠征隊の行動に対して危惧する人もいたが、遠征隊長キリーロフはバシキール人を絶滅させても構わないとさえ考え、厳しい懲罰行動を行った。そうしたことも啓蒙主義時代の出来事であった。以上の問題を具体的に考えてみようとするのが本稿の課題である。