著者
ケン マクニール
出版者
日本ニュージーランド学会
雑誌
日本ニュージーランド学会誌
巻号頁・発行日
vol.9, pp.2-11, 2002-06-22

第二次大戦以前、日本とニュージーランドの交流は極めて少なかった。その中で、1880年代から1930年代にかけて行なわれた大日本帝国海軍練習艦隊のニュージーランド訪問は、13回にのぼり、両国間の少ない交流の中で大きな役割を果たしたと言える。これらの訪問は、西洋社会の政治的対日認識の移り変わりという観点から、3つの時期に分けることができる。第一期、第二期については既に述べたので、本稿では、第三期の訪問について論じる。練習艦隊の訪問第三期は1920〜1930年代で、それは日本が、太平洋の白人諸国との利害の衝突や大陸での軍事行動などで、以前にも増して非難を浴びた時代であった。そのため、南太平洋の白人主義の地に寄港した練習艦の軍人は当然冷淡に扱われるはずであったが、実はそうではなかった。ニュージーランドは、日本とは利害の衝突が直接にはなく、また、第一次世界大戦中に日本海軍が海路防衛の役割を果たしたことをまだ高く評価していた。そのため、日本海軍の防衛に依存していた時代ほどではなかったが、ニュージーランド人は依然として諸手を挙げて艦隊を歓迎したのである。当時日本の近代化がかなり進んでいていたことを、ニュージーランド人はある程度知っていたはずだが、やはり「エキゾチックな日本」というイメージがまだ根強かったようである。そのため、異国情緒を求める好奇心が以前と同じように練習艦への関心を高めていたと思われる。艦隊の将校が現地のニュージーランド人のために開いた催しも、その好奇心に応えて、艦隊訪問の成功の大きな要因となった。直接にふれて確かめてからでないと物事を判断しない、と言われるニュージーランド人は、「利口」で「こざっぱりした」「礼儀正しい」日本軍人の行動や好意の表現を、自分の目で観察して、日本人は信頼できると判断したようである。勿論、艦隊の軍人を観察するニュージーランド人の中には、日本人が与えた好印象にもかかわらず、日本に対して疑いを抱いている者もいたのだが、日本を貶す意見は1935年までの練習艦隊の訪問についてのメディア報道には見られない。本稿では、練習艦隊の訪問に対する現地人の反応だけではなく、艦隊側が現地人に対して抱いた印象にもふれる。日本側はまず、遠洋航海の最果ての地ニュージーランドで盛んに受けた歓迎を喜んだようである。しかし、それと同時に、ニュージーランド人が盛んに示す好意や好奇心に比べて、真の日本についての知識に欠けていることが気になったようである。以前から、半官半民的な文化宣伝は練習艦隊の役割の大きなものの一つだったのだが、ニュージーランドのメディアに引用された日本側の発言にもあるように、西洋諸国で対日反感が募る一方の1920〜1930年代には、文化宣伝活動の重要性がさらに自覚されたようである。遠洋航海の記録にも、エキゾチックな日本に対する好奇心にアピールした催しの大成功が記されると共に、真の日本を紹介する活動の必要性も強調されている。艦隊の将校の中には、日本と英米との間の軋轢に対して軍事的解決を求める反英米派も存在していた。しかし、ニュージーランド側の場合と同様に、英米を貶す声は1935年までは日本側の記録に見られなかった。つまり、日本と英米の関係が悪化しつつある中で、1920〜1930年代の練習艦隊のニュージーランド訪問は相互的好意をその特徴としていたのである。それほど日本に対する関心が高くないニュージーランドの場合、あらかじめあった対日イメージに反応したというよりも、艦隊の訪問がそのイメージ造りに大きな役目を果たしたと言えるのだ。その意味で、練習艦隊の寄港は、好意的な対日認識形成に大いに有効であった。