著者
スザ ドミンゴス
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.3, pp.765-787, 2009-12-30

キリスト教の隣人愛の命令は様々な問題を提起する。愛は人間に最も深く根ざした必要性であるが、なぜ命じられるのか。その愛の命令が要求しているように、偏愛せずすべての人を平等に愛することが可能なのか。キリスト教的愛に社会的表現が与えられ得るのか。本稿は、このような問いに伴う倫理的意味に関するキェルケゴールの見解を考察する。彼は、感情と衝動に基づく自然的愛に対して、キリスト教的愛が自然派生的に生じるのではなく、神によって命じられる愛であると特徴付け、義務になることによってのみ、愛はあらゆる変化から守られると主張する。キェルケゴールによれば、キリスト教的愛の究極的目的は、神を人が愛するように隣人に手を差し伸べるということであるが、それはある学者たちが批判するような非社会的および非現実的倫理を伴うのではない。神への愛は隣人への愛を媒介として常に表現されなければならないのであり、かならず現実的な人に向けられている。
著者
スザ ドミンゴス
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.1-24, 2005-06-30

キリスト教の啓示には異なる領域に属する二つの側面、すなわち歴史的真理と宗教的真理が含まれる。この二つの比較し得ない領域から、信仰と歴史の問題が生じてくる。すなわち神は歴史的現実として現れたが、それは直接的に知られるものではないし、歴史的知識から証明できない。では、いかに歴史的事実に基づいて宗教的真理に達し得るのか。本稿は、この根本問題に関するキェルケゴールの見解を考察する。キェルケゴールによれば、神が特定の時に人間の姿として現れたという出来事は、単純な歴史的出来事ではなく、絶対的事実である。すなわち、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいる。イエスという人物が存在したことは歴史的探究によって証明されるが、歴史的探究からは、イエスが神であるという結論は導き出せない。この点に関する歴史的不確実性は、信仰によってのみ乗り越えられる。しかし、信仰によって得られた確実性は主体的なものであり、客観的なものではない。個人がこの事実を信ずることを決意するとき、それが誤謬であるかもしれない危険を冒す。キェルケゴールにとって信仰とは、まさに危険を冒しながら、しかも信じることである。