著者
マーハ ジョン・C.
出版者
国際基督教大学
雑誌
国際基督教大学学報. I-A, 教育研究 (ISSN:04523318)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.229-240, 2000-03

結婚とは単に結婚する当人同士の個人的な問題ではなく、社会的な関連性をもつ儀式である。その儀式のなかで、未婚から既婚へのカテゴリーの変化が一番如実に現れるのが「名前」であろう。結婚によって姓名を変更するという行為は、社会によって我々の意識の中にある刷り込みが行われるという意味で心理的な問題であるといえる。結婚後新しい姓を持つということは、人間関係をもう一度最初から新たな形で規定し直す手段である。ある存在から別の存在へ変化するという考え方の原型となっているのは天地創造という神話であり、天地創造神話ではかならず「命名」という神聖なる行為が行われる。事実、命名するということは人間がまず最初に持っている知力なのである。これと同様に結婚も、この神聖なる命名という行為がかかわっている。よって、この社会にすでに根付いている姓名変更の儀式を無視することは、社会的心理的に大きな溝をつくることになり、それは人類や神への挑戦であると考えられるだろう。法的に義務づけられているという理由以外に、人が姓名の変更に同意もしくはすすんでそれを受け入れる理由は大変複雑である。新たに結婚した者にとって姓を変えることは結婚相手への忠誠の印という意味を持つかも知れない(「夫と一緒になる」とか「姓を変えてやっと私も結婚したという実感が出た」などとよく表現される)。同様に、結婚後姓名を変えることを規定した現行の法体系を改正することに反対する者は、現在の民法は家族生活に欠かすことのできない心理的な調和や相互の責任感を与えるものであると主張する。姓を同じくするということは、新しい共同体を形成したことを示すシンボルである。この視点で見れば、夫婦別姓を主張することは、単に自分のことしか考えない個人主義の現れと映るであろう。姓を変えるということは、その結婚を真面目に考えていることに何よりの証明であり、新しく結婚した人にとっては大変エキゾチックな瞬間であるし、幸せな人間関係を外に向かって示す新たな装いのようなものであるし、またそれまで自分の姓が気に入らなかったりそれによって嫌な思いをさせられてきた人にとっては、より良い姓に変更する思ってもみなかったチャンスになるのである。また姓名変更をとりたてて特別なことに思わない人もいるだろう。一方、それ以外の人にとっては、夫婦同姓にすることが自分の存在の根幹を失わせるものに思えるかも知れない。夫婦同姓は社会から名前を変えることを強制されることへの不快感を生み、ある職業に従事していてすでにある名前で知られている人にとっては、姓を変えたことを周囲に説明して回らねばならず、変更後も顧客や読者が自分のことを覚えていてくれるかどうか心配せねばならなくなる。また自分のそれまでの人生を否定することになるかもしれない。女性の中には姓を変えることで夫の家族に取り込まれてしまうように感じる人もいるだろう。新しい姓への違和感という問題も生じてくる。夫婦同姓は人権問題にもなるだろう。強制的に世間に対して自分は既婚である、離婚した、再婚したということを公表させられることで、女性のプライバシー権が侵害されるからである。日本では姓名変更に関する法律には柔軟性がある。確かに姓名変更に関する公的に国によって定められた手続きが存在するが、結婚に際し女性の方が必ず姓を変えなくてはならないとか男性の方が変えなくてはならないということを定めた法律はない。ただし、日本の法律では、戸籍に載せることができる姓は一つのみに定めることとしているのである。その結果男性か女性のどちらかが相手の姓を名乗ることを規定したのが、日本における夫婦同姓の法律である。この法律に対しては反対の声も大きい。夫婦別姓とは結婚後も自分の姓を保つ慣行のことである。本論では、この問題に関する文献の調査と、東京に住む働く女性や学生へのインタビューの結果をもとに、日本における婚姻後の名前に関する現状の様子とこの問題に対する様々な意見を概観する。戸籍制度をもつ日本、韓国、台湾の3つの国では、この戸籍というものが夫婦同姓のシステムを維持するのに大変大きな影響を与えている。韓国と台湾では戸籍制度は日本の植民地政策の名残りであるが、中央集権的な社会運営を維持するのに効果的であるため今でも保持されている。他の国々では個人の身分証明システム(personal identification)が一般的であるが、それに替わる家族証明システム(family identification)がこの戸籍制度である。現在夫婦別姓を取り入れている人達は、戸籍上は同姓だが、仕事や銀行や保険の名義など日常的には旧姓をつかっている場合があるが、政府・与党はこのやり方に反対している。この姓名の問題に関して日本の企業では様々な対応をしており、働いている女性たちも特に決まった方法に従っているわけではない。完全に相手の名前に変えてしまう人、旧姓を使う人、社内でも両方を使う人、社内社外で使い分ける人、両方をハイフンでつないだり旧姓を括弧に入れたりと様々である。本論ではこの問題を理解するためのいくつかの理論的枠組みを紹介する。自分の名前を維持したいという気持ちは、単に女性が結婚前に独身時代を振り返り寂しがっているというだけの心理的な問題では必ずしもない。本論では夫婦別姓の問題は産業社会の中で過去40年間にわたって起こってきたより大きな構造的変化と関連があると主張する。夫婦別姓はよく言われるような日本人の文化的特異性や、ましてや社会的存在としての女性の本質といったものにかかわる問題ではない。この問題を単に文化特異論やフェミニズムの問題として片付けてしまうのは、結局男女の社会的立場のパワーバランスを変えることのみに焦点をあわせたよくある議論になってしまい、政治的社会的ヒエラルキーや中心と周辺といった問題に全く触れることがなくなってしまう。姓名変更とは国家に対し、国民への権力を委譲することと軌を一にする問題である。名前は単に個人をアイデンティファイするためのものではなく、国家や企業がコントロールする対象とするべきものだと考えているものである。結婚により名前を変更することまたは維持していくことは、イデオロギーを含む言語行為である。それはある慣行やシステムを維持したり正当化したり、または拒絶する意識を言語によって表現したものである。結婚と姓の問題の中心は性差別の問題のように見えるが、しかしその問題の核心は、名前の選択の分野でもこれまで様々に批判にさらされてきた「単一主義」の方向性を貫こうとする国家の抑圧ということである。近代国家では、植民地政策と言語統制、マイノリティの支配や同化政策を行う際、個人の名前の統制を行ってきた。植民地時代には韓国名を和名化するために戸籍が利用された。現代の社会においても家族の中で同様な文化的同一性をつくりだすため戸籍が使われている。個人の選択の問題である夫婦別姓とは自由論に関わる問題であり、人の一生に関する意思決定の権利を正当に一人一人の男女に委譲するための問題なのである。