著者
下家 美里 シモイエ ミサト
出版者
岩手大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
岩手大学大学院人文社会科学研究科研究紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.87-107, 2008-07

中村三春はファミリーロマンスとして「銀河鉄道の夜」を読むことを批判しているが,それは,多くある宮沢賢治作品の中で「銀河鉄道の夜」は親と子の関係が強く描かれていることも改めて意味する。また,宮沢賢治の作品を考察する時,父や母という単語を出せば,精神分析学的な議論から逃れることはできないだろう。それはおそらく文学を考えるときには切り離せないものなのだろう。作品としてある以上,登場人物にはそれぞれ役目が与えられているし,父も母も,父性や母性の入れ物として置かれることもあろう。そうだとしても,そこに置かれている人物を飛び越えない読み方は常にしていかなければならないのではないだろうか。この論では像としての「父」よりも,子がお父さんと呼ぶ父を見てみたい。